第17話
慶長三年には閏十二月があり、年の瀬も押し詰まった頃であった。
結城秀康は数えで二十七、男盛りであり、武勇にして沈着冷静な物腰は諸将からも高く評価されている。
幼少期には邪険にしたのが嘘であるかのように、家康はこの頃の秀康を手直において頼りにしている。秀康と秀忠には、数えでは五歳の年齢差がある。
秀康が生まれた時には、松平信康の立場はまだ安定していなかった。生まれの経緯から言えば、秀康は三河閥から積極的に祭り上げられる立場ではなかったとはいえ、その母は一応は三河の生まれである。
信康の対立候補として担がれる危険があった。そのため、家康は、秀康の出生後は曖昧に処理して、会うことも無かったのだが、その秀康を引き立てたのが信康だった。
秀康にとっては信康は兄と言う以上に恩人である。同時に、父家康には隔意があっても不思議ではなかったが、賢明な秀康はそれを微塵も態度に出していない。その殊勝さを憐れんで、家康は、この頃は秀康に目をかけている。
秀康が結城家を継いだことから、秀康に対しても、家中に対しても、秀康を後継から外す言い訳が整ったことも、それに拍車をかけている。
秀忠を後継とするために、秀康には貧乏くじを引かせたが、そうなればなったで、家康は急に秀康を哀れに思って、父親めいたことをやっているのである。
実際のところ、秀康は家康を補佐して過不足ない。
家康の名代として、他家に使わされることも多い。
「それで、大叔父上、こたびのご来訪は大爺様のご用件ということですが」
大坂の佐助屋敷、奥の間に通された秀康は、佐助時康と対面している。未だ若い時康を後見する意味で、その座には見星院の姿もあった。
「急な申し出で申し訳ないが、内府殿の命をお伝えする。御当家、溶姫を、内府殿の養女として貰い受けることになった。徳川の姫として、黒田甲斐守殿に嫁いでいただく」
「は? さようなことは父、豊前からは伺っておりませぬが」
「この際、豊前殿のご意向は関係ない。内府殿の命であれば。公儀の命である」
「秀康殿。何を莫迦げたことを仰せか。どうして佐助の姫の溶姫が、徳川の指図を受けねばならぬ」
見星院の鋭い言葉が投げつけられた。
「内府殿が仰せには、そもそもはコウ姫は松平信康殿のご嫡女、いわば徳川の嫡流であらせられる。その婚儀、内府殿が差配して当然のところを、了諾も得ずに佐助に嫁いだは、異例のこと。むろん、内府殿も今更、それをどうこう言うおつもりは無いようでありますが、コウ姫の代わりとして溶姫も貰い受けても、筋違いではあるまいとのお考えでござる」
「なんと、莫迦なことを。そもそも私が離縁された段階で、徳川とは縁切りしています。敢えて言うのであれば、コウ姫らは織田の姫。内府殿にとやかく言われる筋合いではありますまい。まして溶姫は歴とした佐助の姫。かような非道がまかりましょうか」
「公儀の命にございます」
「公儀と言うのであれば秀頼君の命でも持ってきなされ。秀康殿。そなたがついておりながらなんという有様か。そなたは太閤殿下の猶子ではありませぬか。いかに、政務総覧を太閤殿下のご遺言で命じられたにせよ、豊臣の軍師の家から姫を奪うとは、言語道断。天下に弓引く所業でありましょう」
「それがしがついていながら、亡き兄、信康殿をお助けすることは出来ませなんだ」
「…何を」
「義姉上ならばお判りでしょう。我が父はこうと決めれば、嫡男を殺めることすら躊躇わぬ男。まして佐助の家など。どうであれ、家康殿が、今は公儀を背負っているのは事実。佐助は、溶姫ひとりのために、天下の謀反人となる覚悟がおありか」
秀康の言葉を受けて、見星院は秀康を睨んだが、それ以上の言葉をつなげることは出来なかった。
「大叔父上」
「時康殿。溶姫のことはこの秀康が命に代えても、守り抜こうぞ。決して悪いようにはせぬ。やり方は非道ではあるが、そもそも黒田に嫁ぐは溶姫にも悪い話ではあるまい」
「それでございます。私の覚えが確かなれば、黒田甲斐守殿は確か、蜂須賀の姫をご正室にお迎えのはず。溶姫は側室ということでございますか」
「甲斐守殿はご正室とは離縁なされた。男児もおらず、身綺麗にされておられる。あちらは溶姫との縁談、是非にとの仰せ」
「なんと」
縁あって夫婦となった絆を切ってでも、黒田は佐助との縁を結びたいと言っている。いや、佐助ではない。この場合は、徳川である。
ただの縁談ではない。
大きな政略の上で、佐助が転がされているのだと時康は思い至った。
「いずれにしましても、豊前の許諾が無ければ我らにはどうしようも無いことでございます。大爺様には、なにとぞ父に話を通していただきたく…」
その時、表の方が一気に騒がしくなった。
何事か、と思う間もなく、悲鳴やら、制止の大声やらが屋敷に鳴り響く。
「おお、時康。息災であったか」
そこに現れたのは家康当人であった。
三名はすぐに平伏し、上座にいた秀康は上座を家康に譲り、すぐにその片割れで、護衛の任につく。
「勝手知ったる婿殿の屋敷なれば、案内を待たずに上がってしもうたわ。許せよ」
どうしたものかと時康の指示を仰ぎに来た家臣に、時康は、問題ない、下がれ、と指示をした。
数え上げるのが難しいほど、家康はこの佐助屋敷を訪れたことがある。さすがに案内も待たずに奥に進んだのは初めてであったが。
「急に言うてもな、慌てふためくであろうから、秀康を先ぶれに出した。おおよそは聞いておろうの」
時康が答えようとするのを制して、見星院が口を開く。
「義父上。いかに飛ぶ鳥を落とす勢いの義父上とは言え、無理が過ぎるのではございませぬか。何もこの縁談に我らは反対というのではありませぬ。吉興殿の承諾をとっていただきたいと申しているのです。当たり前のことでございましょう」
「五徳殿。両兵衛の片割れが、今この縁談を承諾するはずが無い。しかし無理を通してでも、今、この縁談はまとめねばならぬ。これはの、つまるところ佐助のためになるはずよ」
「大爺様。そもそも、公儀からは私婚禁令が出ているはず。いかに大爺様とは言え、法に逆らうは、道義にもとるのではありませんか」
「よくぞ申した、時康。それでこそ我が曾孫よ。法は大事じゃ。しかしの、何が法かを決めるかは公儀。そして今の公儀とはわしのことよの。わしが良いと言えば良いのじゃ」
さて、と家康は腰を上げた。
「大部屋はあちらであったな。ついてまいれ、秀康。さっそく溶姫を貰い受けようぞ」
「大爺様!」
再び家中は慌てふためいた。
制止するにしても相手は内大臣、豊臣五大老筆頭にして、政務総覧である。大して猛者はいない佐助家中であったが、いたとしても刀を抜くわけにはいかない。せいぜいが声をかけるだけであり、その程度のことは家康は構わずに無視して進んだ。
「大爺様!」
大部屋の子らは家康を見つけると駆け寄ってまとわりつく。彼らにとっては、愛情深い大爺様なのである。
家康も目を細めて、子らひとりひとりを頬ずりする。
「あの、お爺様、この騒ぎはなんでございましょうか」
そこにいたコウ姫が、疑いのまなざしを祖父に向けた。
「おお、コウ姫。溶姫を貰い受けに来た」
家康は、溶姫を抱きかかえた。
「おう、思ったより大きくなったの。これは腰にくるわ。秀康、代われ」
「はっ」
「あの、溶姫を、どうなされるおつもりで…」
「コウよ。そなたは徳川の姫。しかもただの姫ではない。信康の総領娘、すなわち、徳川の嫡流よ。そなたは豊前殿にやってしまったからの、代わりに溶姫を貰い受けることにした」
「なにを、なにをなさいます!」
母の絶叫を聞いて、時康は反射的に刀に手をかけた。
「抜いてはならぬ!」
すかさず、秀康が一喝する。その声にすくんで、時康は動けない。
「仮にもこのお方はご公儀なれば。刀を抜けば取り返しはつかぬ。時康! 今はこらえて佐助の家を守れ!」
「ああ、お爺様、お許しを、お許しを! どうか、溶姫を連れていかないでくださいませ」
母と兄の姿を見て、秀康に抱えられた溶姫も泣き出した。
「溶、案ずるでない。そなたのことは必ずや、この秀康が悪いようにはせぬ。たとえ命に代えても」
「これ、秀康。まるでわしを鬼のように言うのではない。今より、溶姫は徳川の姫よ。誰からも後ろ指を差されぬような盛大な婚儀をあげてつかわそうぞ」
家康はこの時期、次々に政略結婚をまとめている。
徳川方の姫はすべて、家康の養女となっている。
家康の息子の松平忠輝には、伊達政宗の娘、五郎八姫を。
福島正則の嫡子・正之には、家康の異父弟の松平康元の娘・満天姫を。
蜂須賀家政の嫡子・至鎮には、小笠原秀政の娘・万姫を(万姫の母は、コウ姫の妹の中姫である)。
そして黒田長政には溶姫を。
「義父上。せめて私が溶姫の後見としてついて参ります。お受けくださいましょうな」
見星院は、家康を睨みながらそう言った。
「そなたのことはそなたが好きになされるがよかろう。今までもそうなさって来られたのだ」
家康も、冷たい目で見星院を見返した。
見星院は、コウ姫に「そながが佐助の奥なのです、しっかりなされよ」と声をかけ、時康に耳打ちをした。
「至急、豊前の吉興殿にお知らせするのじゃ。頼みましたよ、時康。戦国の世はまだ終わっておらなんだ」
そして嵐が過ぎた後、虚脱したコウ姫と時康が残されたのだった。
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