第16話

 この時代、正室以外には側妾を置かない大名は案外多い。そのほとんどは、如水がそうであるように切支丹大名である。切支丹にとっては姦淫は大罪であるからだ。

 中には、上杉景勝のように、切支丹でもないのに正室・菊姫以外には妻を持たない男もいる。佐助吉興もその一人である。

 幼な妻のコウ姫に手を付けるのは十分に育ってからと最初は思っていた吉興だったが、相手があることであり、相手も早く赤子を望んでいるのであれば、抗うこともできなかった。

 余りにも幼い、いたいけな妻に手を付けたことに、吉興には罪悪感がある。妻以外に側室を持たなかったのはその罪悪感のせいでもあったのだが、要は愛妻家だったのである。

 コウ姫は六人も子を産んだので、実子としては十分な数が確保できたことも大きい。

 嫡男の時康、長女の溶姫、次男の竹寿、次女の東姫、三男の梅寿、三女の永姫と、都合よく男女の順で、年子でコウ姫は子を産んだ。そのいずれもが健康に育っている。ありがたいことである。


 嫡男の松寿は既に時康の名を名乗っている。まだ十五の少年であるが、早めの名のりは、外曾祖父である家康の意向である。

 康の字は、偏諱であるとも言うが、実は偏諱ではない。家康から時康に与えられたのであれば、康の字が上に来るからである。これは、家の字として、松平信康から継承したという形式になっている。家康が強く望んだことである。

 そうは言っても佐助は松平ではない。

 鎌倉北条氏であることを示すために、吉興は嫡男に時の字を与えた。


 後世、家康が愛した子々孫々のうち、名が挙がるのが、千姫、尾張義直、そしてこの佐助時康である。特に家康はこの時康を偏愛した。佐助の子らの中でも、時康への愛情は格別だった。


 佐助の家の方針として、子ひとりひとりに乳母なり侍女なり小姓なりをつけることはしていない。全員がすべての子に仕えるのである。

 大名家でのお家騒動は珍しくないが、血を分けた親兄弟が殺しあうこともあるのは、側近同士がいがみ合うからだと吉興は見ている。当然のことであるが、吉興は自分の子らがいがみあうようにはなって欲しくない。

 そのため、子らはまとめて大部屋で育てられている。人数が多いからいつも大騒ぎであった。


 大坂の佐助屋敷では、さすがに嫡男である時康には別室が与えられていたが、時康も弟妹と一緒にいるのを好み、末の妹が金切り声を上げる隣で漢籍などを読んでいる。


大兄様おおあにさま、あそんで」

「む、あとでな」


 東姫が時康の背中にまとわりつくのを振り払いもせずに、自らに課した読書をこなすのであった。


 大部屋にはおもちゃが散乱している。いちいち子らに注意するのに、コウ姫も見星院も疲れ果てたのである。それらおもちゃにはこれみよがしに葵の紋が刻まれている。見星院が何度丁重に断っても毎月毎月、家康から送られてくるのだ。

 最後には家臣に下賜しているほどである。佐助家臣の子弟は、葵紋入りの玩具をひとつふたつは持っている。壊れても古くなっても捨てられないから厄介である。どうしたものかと相談されて吉興は、なら、定期的に集めて要らなくなれば、瀬戸内の海中に捨てよ、と言ったので、今はそのように処理されている。

 佐助の家では自前で子供の玩具を買ったことがない。


 コウ姫が佐助に嫁いで以降、実家としての徳川の支援は万全であった。はっきり言って過度に徳川に接触して、秀吉から睨まれたくない吉興にとっては迷惑千万なほどであった。

 もちろん、太閤の懐刀である吉興を、取り込むという政略的な意図があるのは事実だろう。しかしそれ以上に、家康の、時康への愛情があったのも事実であり、家康が時康を偏愛する裏側に、松平信康を殺めたことへの贖罪の念があるのを知る吉興としては、頭ごなしに断るのもなかなか踏ん切りがつかなかった。

 家康は時康を見るたびに、信康に瓜二つだと言って目を細めた。

 見星院が言うには、そこまで似ているわけではない、ということだったが。

 コウ姫の下の妹たち、中姫は小笠原氏に嫁ぎ、末姫は本多忠勝の嫡男の本多忠政に嫁いでいる。家康の差配で、徳川の姫として佐助から送り出したのだ。無論、秀吉の許しを得てのことである。

 佐助と徳川は世間的にはかなり親しい交際をしている家であったし、事情を知らない者であれば、佐助は徳川に加担して当然と見るかも知れない。しかし豊家恩顧や北政所らは、万が一にも、佐助が豊臣を捨てて徳川につくとは思っていない。如水はともかく、佐助吉興がそうするだろうとは見られていない。

 佐助は、黒田如水以上に、豊臣の軍師と見られていた。


 少年の芸術というものがあるとすれば、佐助時康はそうであった。見た目が凛々しい美貌だったというだけではない。真っ直ぐな正義漢であり、それでいて思慮深く、慈悲深かった。

 信康については、家康は親として教育を間違えたと言う忸怩たる思いがあったので、その信康の嫡流の血筋から、時康のような人品優れた若者が生まれたことを救済のように思った。

 しかしながら、時康は家康の曾孫である前に、吉興の息子である。吉興の息子としては、変わった父親を持ってそれなりに苦労をしていた。

 大坂では、時康は、柳生新陰流の町道場に名を隠して通っている。佐助には剣術指南はいないからである。吉興の考えでは、剣術などにうつつを抜かすのは莫迦がすることであった。いかなる剣豪でも、一対三で槍で突かれれば、勝てるものではないからである。いかにして多勢に持っていくのか、それが肝要なのであって、個人の武芸を磨いても、大規模戦では無意味である。

 吉興の軍事思想は、英雄豪傑は要らないというものだった。むしろ臆病者の方が列を乱さずに陣を守って戦ってくれるからよほどいい。

 太閤生前はよく、各大名家から人を出し、武芸大会が開かれていたが、佐助の者がそれで勝ったことは一度もない。下手に強くなられても困るからという理由で剣術指南も置いていない。

 だが時康は少年として、それ相応の立場がある。剣も振るえないようでは、他家の少年らから侮られる。それが悔しい。その思いを吉興にぶつけたところ、「労せずに侮ってくれるなら儲けものではないか」と平然と流された。

 そのため、小姓の今村新九郎と共に、町道場に通っているのである。


 大坂の佐助屋敷には家臣中間、その家族らを併せて、七百余名がいる。それらを差配する仕事を、吉興は時康に課していた。

 佐助の家の統治は独特である。

 忙しいは大名の恥、というのが吉興の考えで、裁判についても他家では細かく当主が行う。吉興は、現行犯、証拠がある件、目撃者がいる件、自白がある件、状況証拠的に疑わしい件などをあらかじめ分類させ、量刑や対応のだいたいの相場を示しておく。それにそって、奉行らが先例に沿って量刑を課すので、吉興の負担は減る。

 また、代言人の制も設け、代言人の任を担当する与力は、徹底して被告を弁護させるようにした。それで可能な限り冤罪を防ごうとしたのである。

 日々の判例を、刷らせて、どういう裁きがあり、どう処理されたのか、家臣の末端まで知識の共有を図らせた。他者の目があるから奉行も恣意的な裁きは出来ない。

 新規の例や、難しい判断を要する案件のみ、吉興や時康に上げられてくる。上げられて来ないものについても、吉興はたまに介入して、なぜそう判断するのか、考えを示したうえで判決を覆すこともある。

 佐助家中の司法系の家臣らは、常に自身の考えを論拠を示して提示しなければならず、しかもそれが不備であれば修正が入る。非常に緊張感をもって職務にあたっている。

 それと同じ緊張の中に、時康はいる。

 しかも時康の判断が求められるのは特に判断が難しい案件ばかりであり、それでいて論拠の詰めが甘ければ父から激しい批判を浴びる。しかもその批判をしばしば、吉興は印刷して家中全員に配布するのである。

 時康ほどの少年であっても心が折れそうになることもしばしばであった。時康が反論を試みても、吉興は豊富な漢籍の知識、国史の例を引いて徹底的に叩き潰すのである。時康が暇を見ては漢籍をひもといているのは、武装するためである。

 しかし吉興の容赦ない姿勢のおかげで、その思想は家中で共有され、威令は徹底されていた。

 うるさいにもかかわらず、大部屋にいることを時康が好んだのは、幼い弟妹と触れ合って癒されなければやってられなかったからである。


 

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