第2話

 京都所司代は元は室町幕府の制度で、近世では織田信長が、永禄十一年に村井貞勝を充てたのが始まりになる。

 本能寺の変では、村井貞勝は織田信忠と共に討ち死にしたので、秀吉が明智を討って、京を制圧した時には、京市中の行政職は空位になっていた。

 この役目には後に前田玄以が後に専従の形でつくことになるのだが、朝廷、公家との交際も必要な特殊な任であり、後に豊家五奉行のうち、既に引退していた浅野長政を除き、ただ一名のみ徳川から処断されることが無かったのは、京都奉行とも呼ぶその職が特殊でにわかには余人を以て代えがたかったからである。


 前田玄以がその任につく前、数年ではあるが、秀吉政権にあって最初に京都奉行にあてられたのが佐助吉興であった。

 これは黒田官兵衛の進言によるものであり、その狙いは以下のものであった。

 第一に、近江、美濃の国人は京に近く、足利将軍家の斡旋をうけて、公家と縁戚を結んでいる者が多い。例えば美濃の稲葉一鉄は三条西家の婿になっていて、その関係から、幕府の斡旋を受けて、元は稲葉の家臣であった斎藤利光は、妹が土佐の大名、長曾我部氏に嫁している。戦国の世は親子兄弟争うのが倣いではあるが、一方で頻繁に没落もあるため、閨閥を拡げておくのは当然であり、また、遠い姻戚とは言え頼られれば保護するのが諸家の「当然」でもある。佐助氏は、吉興の曾祖母が冷泉家から入っていて、祖父の妹は一条家の側室に入っている。零落していれば大して使えない縁だが、京都奉行としては有用だろう。

 第二に、今まで軍役の多かった吉興に文官経験を積ませるという意味もある。性格的には温厚、能力的には不足は無く、むしろ文官職の方に適性があり、今後、秀吉政権では文官の不足が見込まれる以上、長浜以来子飼いの吉興を使えるようにしておくべきだろう。

 第三に、吉興は直接弓矢にものをいわせる場面に立つことはほとんどなかったが、山陰攻略の軍略作成とその実施、物量手配の手腕がほぼ吉興の手腕によるものであるのは明らかであり、同列扱いされている長浜子飼い衆の中でも功績が二つ以上抜きんでている。これ以上偏重するのは組織上よくない。戦陣においておけばおのずと更に功績を積み上げてしまうだろうから、そう言う役目は加藤清正あたりに与えて育てた方がいい。


 吉興を京都奉行に充てるに際して、前任の村井貞勝が従五位下民部少輔であったことを踏まえれば、無位無官無領というわけにはいかない。まず、大原にて二千石、他、山城国中および近江国中で計一万石を合わせて、吉興はこの時、初めて大名となった。官位もそれにあわせて、従五位下豊前守となった。職掌上必要だからその官位になったのだが、これはこの時点ではほとんど秀吉当人に並ぶものであり、いきなり高位についたため、吉興はその後、豊臣政権下では官位が上昇することはなかった。

 後に、吉興は、実際に豊前国の国主になるのだが、豊前を領したから豊前守と称したわけではない。豊前守の官位の方が先であって、吉興はこの後、佐助豊前、あるいはただ豊前と呼ばれるようになった。


 京都奉行としての吉興の評判は上々で、この時期に吉興は見星院とその三子を保護している。

 見星院とは信長の長女の五徳であり、徳川家康の嫡男・松平信康の室であった者である。信康が切腹を命じられた後、見星院は織田家へ戻ったが、家中に徳川との同盟を危うくさせたとする批判的な意見もあり、信長は京の寺銭の一部を見星院の財として与えて、京で気安く暮らせるように手配してあったのである。

 後に、徳川に置いてきた三姉妹をも京に引き取り、やれやれと安堵していたところに起きたのが本能寺の変であった。

 織田家の者ではあるけれど、半ば隠れ住んでいる見星院までは明智光秀も見落としていたようで、討たれることはなかったのだが、その後のごたごたで織田家とも連絡がつかず、織田信孝、織田信雄、共に忘れてしまった形になっていて、吉興が見出した時には、貧窮しているとまではいかないにしても、収入がなくなり、かと言って動くに動けない状況で、困り果てていた。

 まずは、吉興が私的に手当てをした後、秀吉の嫡男である羽柴秀勝にとっては姉に当たるので、織田家の継承者としての意味合いを印象付ける意味合いもあって、秀勝の名において保護する手配を整えたのだった。

 織田氏は総領の信忠も身罷り、信孝、信雄がそれぞれ宗主の座を賭けて争っている最中、一度は他家に嫁いだ出戻りの姉を忘れたとしても止むを得ないのかも知れないが、忘れられた方としては、たまったものではない。特に、信雄は、見星院にとっては同腹の兄であり、見星院の怒りは凄まじかった。

 

 ちょうどこの頃、佐助累代の家臣としては一人残った橘内長久が、主である吉興に早く嫁を取るようせっついていた。吉興の父、吉興の弟は、貧窮のうちに亡くなり、鎌倉以来の由緒ある家である佐助氏も、吉興が亡くなれば絶えてしまうかも知れなかった。

 橘内氏は鎌倉から佐助氏に随従していた家ではなく、奥羽にあった時に臣従した家であるが、佐助の由緒はそのまま橘内氏の誇りでもある。

 鎌倉幕府の序列から見れば、執権一族たる佐助氏は、足利をも上回る家系であり、羽柴秀吉などは足利の家来の家来の家来に過ぎない。

 貴種の中の貴種である佐助氏を、何があっても絶やしてはならぬというのは長久の執念であった。


「祝言が煩わしいと仰せならば、女中にでもお手をつければよろしいのです。側室など何人いてもよろしい」


 長久はそう言うのであるが、なぜかふんぎりのつかない吉興であった。

 その吉興に、見星院が目を付けた。


 長女のコウ姫は数えで十一、まだ月のものも来たばかりではあるが、そもそも母親の見星院でさえ忘れられていた存在であり、信長の庇護が無くなった今、先行きはどうなるかは分からない。

 三河まで行けば、徳川家康が保護するだろうが、見星院が見たところ、どうやら天下は羽柴秀吉のもとになりそうである。織田も徳川も、先行きはどうなるかは分からない。

 吉興はこのまま、羽柴家中にあって、まずは失脚することはないだろう。吉興ほどの者をみすみす捨てるならば秀吉は阿呆であるし、阿呆であるならば天下を狙えるはずもないのだ。

 それに、佐助は見たところ煩い係累もいなさそうであるし、奥をまとめる者もいない。

 長女の好姫を誠実な男に縁付かせるとともに、佐助の家に欠けた部分を自分が埋めれば互いにとってよいことではないか、と考えたのである。


「お花を」


 吉興がご機嫌伺いに行くたびに、コウ姫は野辺の花を摘んで来ては、吉興に差し出した。いくら信長の庇護が無いとは言え、織田信長の孫であり、徳川家康の孫である、気安すぎる振舞いではあったのだが、吉興はすでに見星院公認で家族枠に入れられてある。


「それがしが、一の姫君をですか?」

「貴方様にすがって生きているような身の上ですが、信長公の孫であり、家康殿の孫でもある子です。それも今となってはかえって煩わしいものとお思いかもしれませんが。市井の者に嫁げる身分ではなく、織田に委ねても徳川に委ねても、良いように使い潰されるのが目に見えています。せっかくのご縁ですから、貴方様に引き受けていただければそれが何よりと思っているのですが」

「しかし ― 」


 まず思ったのはいかにも幼いということだ。

 あのように愛らしい姫君を、手折るような真似は躊躇われる。

 だが、かの姫君が信長と家康の血筋であるのも確かで、利用しようと思えば使い途はある。叔母たちはそれぞれ、前田利長、蒲生氏郷、北条氏直の室である。


(北条か)


 鎌倉北条氏の末裔である吉興にとっては、北条の名を詐称する小田原北条氏は無条件に嫌悪する存在である。

 コウ姫と結婚すれば、北条氏直が義理の叔父ということになるわけで、それは少し嫌な感じがした。

 しかしそのようなことはコウ姫の命運の前には些末なことである。

 貴種と閨閥を求めて、コウ姫を貰い受けたいと願う武将は、あと数年もすれば幾人も現れるだろう。だが、そのうちの誰が、コウ姫そのものを大事にしてくれるであろうか。


 結局、吉興はこの話を受けることにした。条件から言って、コウ姫の相手として自分自身以上の者はそうそういなかったからである。そこは見星院と意見が一致した。

 織田氏から見れば、佐助吉興は陪臣ではあるが、秀吉が天下を取れば天下の直臣になる。そしてその日はもう間近に迫っている。

 ただし相手が相手であるので、吉興の一存では決められなかった。秀吉の許諾が必要だったのである。

 方法としては、普通であれば正室のおねや、嫡男の羽柴秀勝から、絡めて迂回して話を上げるのが定石ではあるのだが、吉興はただの家臣ではない。竹中半兵衛の衣鉢を継ぎ、羽柴の軍配を預かる者なのである。

 そのような立場の者があれこれと目に見えぬところで暗躍することを、秀吉が愉快に思うはずがない。吉興は機会を見て、秀吉に直接、願い申し出た。


「ほお。その方が、信長殿、家康殿の孫婿になると、そう申すか」

「なかなか、剣呑な話であるな、のお、平兵衛」


 秀吉の傍らにある黒田官兵衛が、じろりと上座から睨んだ。

 黒田官兵衛という男は、羽柴に仕えた時期は吉興よりも後であるのに、当たり前のように上座から申す男であった。いつの間にか、それを誰にも当たり前のように受け入れさせている。

 豊前守の官位を持つ吉興を、平兵衛呼ばわりするのは、今では蜂須賀小六と黒田官兵衛くらいである。蜂須賀の場合は親愛の情からであったが、黒田官兵衛の場合は、いつもなにかしらの意味が含まれている。

 この場合は、平兵衛扱いすることで、「両兵衛」の片割れであることを秀吉に思い起こさせたのであり、羽柴の軍師が、織田信雄や徳川家康に通じる危険を警告したのであった。


「誰の婿になるかはともかく、それがし、かの姫君に惚れました」


 吉興の物言いに、場は一瞬きょとんとなった。これはこれで戦いなのである。突進してくる相手を馬鹿正直に正面から受けるのは下策であった。

 吉興が言ったのは事実であったが、恋の話にしてしまうことで、政略や下衆の勘繰りを笑い飛ばしたのである。


 あっはっは、と秀吉は破顔をした。


「さすがよのう、豊前。この機微。どうだ、官兵衛、さすがに半兵衛の弟子であろうが」

「未熟と言えども竹中殿の名声を継ぐのであれば、この程度のことは言えて当然であります。平兵衛、そなた、惚れたと申したな」

「左様にございます」

「男が惚れたと言うは、生涯そのおなごしか抱かぬことを言うのだ。わしは妻に惚れておるから妻以外の女は知らぬ」

「そう聞き及んでおりまする」

「なればそなたもそうするか」

「黒田様をご先人と仰ぐ所存でございます」


 ふむ、とそれを聞いて秀吉は薄い顎髭を撫でた。


「その姫が子を生さなんだらどうする。ご自慢の鎌倉以来の名家が途絶しかねぬぞ」


 その言葉を聞いて、一気に、吉興の背に脂汗が流れた。言うまでもないことであるが、別に吉興は今まで誰に家系を誇ったこともない。ほとんどの者は、佐助という家名を奇異に思いにこそすれ、鎌倉とつなげる者はいないだろう。

 だが秀吉は、佐助が鎌倉北条氏の末裔であることを覚えていた。わざわざ「ご自慢の」という形容をつけて。

 このことでは秀吉が決して吉興を許すことはない、おまえも心を許すなと忠告してくれた亡き師の言葉を今更のように噛みしめる吉興だった。


「その時は家もろとも滅びるまででございます。神武開闢の時からある家でもなし、その時はその時でございます」


 吉興のその言葉に、


「言うたな」


 と秀吉はにやりと笑った。


「よかろう。仲人はそうよのう、秀勝につとめさせよう。あれもかの姫の血筋であるしな。五徳殿はつつがないか」

「はい。寛大なるご措置、伏して御礼申し上げます」

「よい。分かっておろうの。働いてもらうぞ。五徳殿も承知か」

「既に、永姫様、冬姫様にご書状を差し上げ、信雄殿に与することのないよう、仰せになったとのことです」

「あのお方が男子であらせられればのう。織田がこうも傾くことはなかった。まあ、織田はそれでよかろう。降すべきは ― 」

「徳川、にございまする」


 官兵衛が平伏して言った。


「そういうことだ。徳川とのこと、そなたに委ねるぞ、豊前」


 そう言って秀吉は立ち上がり、対面の間を後にした。

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