豊右府末裔顛末記

本坊ゆう

第一部

創家

第1話

 家中の者からは、平兵衛と呼ばれていた。

 扱いとしては羽柴秀吉直属の小姓だったが、竹中重治が特に軍略の弟子として扱っていて、竹中半兵衛重治は、信長から秀吉に付けられた与力であり、厳密に言えば秀吉と同格であったので、その弟子である佐助平兵衛吉興も、やや遠慮がちに扱われる立場であった。


 ある時、秀吉が吉興を呼び出して、


「家中には佐助を名とする者もいるから、紛らわしい、姓を変えてはどうか。儂の旧姓の木下の木の字をやろう。師匠の半兵衛殿から竹を貰い、竹木としてはどうか。木の方が上にあってしかるべきだが、木竹よりは竹木の方が語呂がよかろう」


 と言った。

 これに吉興は、次のように返答した。


「おそれながら。殿に拾い上げていただいた身ですが、佐助の家はそれなりに由緒のある家でございます。鎌倉の北条執権氏の分家で、おおもとの姓は北条になります。平兵衛の通名も代々のものでして、平氏であるから平の字がはいっているのです。私の代でやたすべきものではございませんので、なにとぞそればかりはご容赦願います」


 それを聞いて、秀吉は、にかっと笑って、


「そうか、さような由緒ある家とは知らず無体を申した。許せよ。学が無いばかりのたわごとじゃ。さようなことであれば、この話は流そう」


 と言って立ち上がり、吉興の肩をとんとんと叩いて退出した。

 吉興は分かっていただけたかと胸をなでおろし、後日、世間話として師匠の竹中重治に、かようなことがありました、と話したのだが、重治の表情はにわかに険しくなった。


「それはとんでもないことをしでかしたな、そなたは」

「はあ。殿は気になされていないご様子でしたが」

「思いをそのまま表情に出すようでは、草履取りから大名にまでなれるはずがないではないか。筑前殿はいちいち、過去にあのお方を虐めた者、軽侮した者、それらの名をしかと胸に刻んでおられているであろう。そなたもその一人になってしまったのだ」

「私は殿を軽侮などしておりませんが」

「木下の木の字を与えるとまでおっしゃったのだ。それをにべもなく断られ、しかも佐助の家は北条執権氏の末裔とか、氏素性も知れぬ筑前殿にはまさに内腑をえぐられるかのような物言い。よい、分かっておる。北条一門は鎌倉にて族滅の憂き目に遭い、佐助は生き延びた数少ない北条一門、絶やすわけにはいかぬ事情は重々承知している。しかしの、即答すべきではなかったな。師である私の許しも得なければ叱られるとでも言っておけば良かったのだ。さすれば内々で始末しておいたものを。筑前殿がどれほどにこやかであっても、そなたはこの先、決して心を許してはならぬ。一度二度の失敗は数えつつもお許しくださるだろう。だが三度目、忘れた頃に過去の失敗を倍返しになされるだろう。筑前殿がその機会を伺っていることを忘れてはならぬ」


 以後、竹中重治はなるべく吉興を手放そうとはしなかった。自らの陣中に加えたのは、軍師として唯一の弟子を教えるためでもあったが、秀吉から守るためでもあった。


 鎌倉草創の頃、鎌倉中に入るべく源氏山に登った源頼朝を迎えたのは、山ふもとで田畑を耕す者たちであった。兵と言えばすべて借り物であった頼朝にとって、最初の直兵であり、頼朝が流される前の官位が右兵衛佐うひょうえのすけであったことから、佐殿すけどのを助ける、すなわち佐助の者たちとそれらは呼ばれ、その者たちの集落を佐助と呼ぶようになった。

 後にここに北条時政の子で北条義時の弟の時房が居を構え、その流れを佐助氏と呼ぶ。北条一門の中では傍流の傍流であり、それがために最後の得宗、北条高時の頃は、佐助氏の中から出羽に移る者があったのだが、かえってそれが幸いした。

 鎌倉幕府の滅亡に際して、北条氏菩提寺の東勝寺で得宗、前執権を含めて一族ことごとく族滅の憂き目に遭ったからである。

 その後、佐助氏は転々とし、応仁の乱の頃は京極氏に仕え、北近江の国人領主となっていた。世が戦国になるにつれ、主家は六角、浅井と替わったが、浅井長政が織田信長に滅ぼされるに至って、領地もなにもかも失い、たまたまその時分に吉興の父が病で倒れ、幼い弟もいたため、他国に転じることもままならず、貧窮していたところを秀吉に拾われたのだった。

 吉興は浅井万福丸の小姓であり、逃がす算段をしている時に、万福丸が羽柴家中に囚われて生害されたのだが、機略を駆使して、万福丸の遺体の奪還には成功していた。むろん、羽柴陣中にいた竹中重治が敢えて見逃さなければそれもままならぬはずではあったのだが、粗削りながら奇略を駆使する才覚と、少年ながら忠義を貫く姿勢を見て、重治は、みどころあり、とその時に、吉興を見出したのだった。

 いよいよ困窮のどんぞこにあった吉興を探し出して、羽柴家に拾い上げたのも重治であったし、半ば強引に軍略の弟子にしてしまったのも重治だった。


 重治曰く、軍師の才は血筋でもなければ学問でもなく、ある者にはあるし、ない者にはない。発想であるので、努力してどうこうなるものではない、ということだった。

 重治の死に際しては、軍配を吉興に譲り、秀吉に向かって、


「半兵衛の置き土産として、平兵衛を遺しまする。それがしに代わる者としてお使いください」


 と言った。

 重治の死後間もなく、有岡城から黒田官兵衛孝高が救出され、本陣の軍師の任は官兵衛が務めることとなり、吉興は山陰攻略の方に回されたが、半兵衛の置き土産の名はだてではなく、半兵衛に代わって「両兵衛」の片翼を担うことになった。

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