第47話

 慶長十九年、この年の正月は、佐助吉奥は京道崇庵にて迎えた。

 秋に江戸に赴いたことでもあるし、江戸に行くせよ、豊前に赴くにせよ、大名めいたことをするのが億劫だったのである。

 大坂にも、病とのみ伝えて、京から動こうとはしなかった。人生五十年とすれば既にその境を過ぎた。

 成長期に浅井が滅び、欠食の時期を過ごしたため、今になって老いが駆け足で襲ってきているような気がする。

 加藤清正も死に、浅野幸長も死んだ。福島正則は露骨に幕府に目を付けられ、隠居も出来ず、何もできずの状態で、吉興と会うことすらままならない。

 同世代の者らが次々と死んでいく。豊臣恩顧と言っても、振り返ってみればもはや誰もいない。みんな死んでしまった。

 まだ生きねばならぬのか、と憂鬱な思いを抱えている。

 

 秀頼の二条城での拝謁以来、好転したかに見えた豊徳関係は、相変わらず元の木阿弥であった。幕府は秀頼の関白任官を拒絶し、秀頼は、将軍への拝礼のための江戸参勤を頑なに拒んでいる。

 公武両頭制、そこまでは合意が取れているのだ。そこから先が進まない。


 事態が膠着しているのは幕府も重々承知していた。

 しかし、この曖昧な状態も十四年の「積み重ね」があるわけである。今まで見逃してきたことを、例えば急に秀頼に公式命令として、江戸参勤を命ずれば、これまで一体何をしていたのだということになり、法の継続性が担保できなくなる。

 事態を打開するためには、何某らの事件が必要だった。


 そこへ、豊臣が差配して作らせた、方広寺梵鐘の銘文の問題が発生した。

 これは南禅寺の僧、清韓が片桐且元の依頼を受けて起草したものであるが、文中に「国家安康 君臣豊楽」の節が含まれていた。

 幕府儒官の林羅山は、これを家康への呪詛であると難じた。

 そこから話が大きくなり、京五山を巻き込んで、調査の上、明らかになった事実と諸見解は以下のとおりである。


・清韓が意図的に字謎として、家康と豊臣の名を組み入れたのは事実である。清韓はそれを認めたうえで、祝意の表れであると主張した。

・五山の概ねの見解は、天下人の諱を避けるのは常識であって、普通は避ける。ただし絶対に避けねばならないという理も無い。いずれにしても、清韓が好意的に見ても、相当に非常識で軽率であったのは間違いない。しかし呪詛の意があったことまでは認めがたい、というものであった。


 方広寺梵鐘の件は、徳川による言いがかりであるとする言も多いが、実際にはそうとも言い切れない。最大限好意的に見てさえ、信じがたい過失があったのは事実であり、幕府の命において豊臣が差配する事業で、このような過失があったこと自体が問題であるとする態度は妥当であるというしかない。

 信じがたい過失は滅多に起こり得ないから信じがたい過失なのであり、確率的に考えれば、それが意図的な犯意と捉える方が合理性がある。林羅山の主張は、決して言いがかりではないのである。


 稀に、自分の予想と世間の相場が著しくずれている人はいる。清韓自身はここで奇天烈なことをして名を売ろうとしたのかも知れない。

 しかし片桐且元にとっては、真に寝耳に水の出来事だった。


 且元は江戸に召喚され、事情を聴取されるが、大御所、将軍に面談して、意を説くことは許されなかった。幕府は臨戦態勢に移行しており、その圧力は厳しかった。ある日は、十六時間に及び、且元は尋問を受けたほどである。

 そう言う中、本多正信が且元を訪ね、事態打開のための「私案」として、以下の三条件のうちの一をなすが肝要であると説いた。


・秀頼が江戸に参勤すること。

・淀殿を質として江戸に置くこと。

・豊臣が国替えに応じ、摂津大坂を退去すること。


 これはもちろん「私案」ではなく、徳川の要求であることは自明なのだが、徳川として正規に出された要求ではない。

 且元は大坂へ持ち帰り、自らの案として、秀頼に諮ることを余儀なくされたのである。


 且元が大坂に戻り、「私案」を明らかにしたことで、大坂城首脳らは仰天した。且元はこれが徳川の内意であると主張したが、公式の文書は届いていない。

 そこで淀殿は腹心の大蔵卿局を駿府の大御所の元へ派遣したが、大蔵卿局はうってかわって、家康に歓待された。

 それによって淀殿は、「私案」は且元個人の暴走であると断じ、ついに、片桐且元は大坂城を追われるようにして退去した。


 果たしてこれが家康の、本多正信の謀略であったのか。そう捉えることもむろんできる。

 しかし公私の別をつけて考えればさして不思議がある態度でもない。

 片桐且元は、秀吉の遺命により秀頼傅役となり、正規の手続きを経て、冢宰職を家康より引き継いだ人物である。つまり大坂政府の首相であり、表を代表する人物である。

 大坂と江戸、公式の交渉では、厳しい場面が続いたとしても不思議ではないだろう。

 一方、大御所は公的には隠居であり、そこへ、親戚から使いが来た。となればこれをもてなすのも当然である。

 問題は公私の別がはっきりとついていない大坂側にあって、そこから生じた齟齬まで、陰謀として徳川にかぶせるのは必ずしも妥当ではない。

 天下を相手にして交渉するだけの器量も無い者しか残っていない大坂城では、操縦不能状態になりつつあったというだけのことである。


 片桐且元は単に大坂の私臣ではない。

 公儀を通して、冢宰職に任じられていて、徳川からも加増を受けている、いわば国家公務員なのである。この場合の国家とは、徳川をも含むわけであるから、一方的に且元を追い出した大坂城の態度は、国家反逆罪そのものであった。

 

 これを受けて、家康は全国の大名に、大坂征伐を布告した。

 豊臣は、諸大名に加勢を要請すると同時に、戦乱の匂いを嗅ぎつけて大坂に集まりつつあった浪人たちを豊家軍勢として大坂城に入れ始めた。


 かくして大坂の陣は避けられない事態となった。


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 京にいた佐助吉興の下に、若狭小浜城にあった京極家の常高院(浅井三姉妹の中の姫の初姫)より急使が届いた。急ぎ、小浜城へ来て欲しいとの懇願だった。

 常高院の夫、京極高次は既に没し、高次の側室産の子の京極忠高が若狭一国九万二千石を相続した。

 忠高の妻は、将軍の四女、初姫である。

 京極家は大国ではなかったが、その面子は豊臣、徳川にとっては重要人物揃いであった。秀吉の側室の中では淀殿に次ぐ立場にあった松の丸殿は、京極高次の姉であり、小浜城に引き取られている。

 常高院は淀殿にとっては妹、将軍家御台所お江にとっては姉である。豊徳和合の鍵を握る人物の一人である。

 初姫は言うまでもなく将軍の娘であり、生まれてすぐに引き離されたため、将軍夫妻の顔も知らない姫であるが、将軍夫妻はそれだけに不憫に思って、三日をおかずに父母双方から文が届いていた。


 その京極家へ、吉興が呼ばれた。

 京極からはあらかじめ警護の武士が派遣されていた。今枝一学は、随行を希望したが、吉興はこの用が終われば至急大坂城に入るつもりである。今枝らにはその準備を急がせた。


 若狭小浜まではあらかじめ用意されていた馬を乗り潰せば半日もかからない。

 その日の夕刻には、吉興は小浜城に着いた。

 城へは案内されず、離れの御殿に連れていかれる。常高院はそこに居住していた。


「吉興様、お久しぶりに御座います」


 前権中納言である吉興に、上座を開けて、常高院は平伏して待っていた。しかし、吉興は上座へは進まず、常高院に対面して着座した。


「初姫様もつつがなきご様子、安堵いたしました」

「まあ、私を初姫などと呼ぶ方も今となってはそうはおられませぬが」


 常高院は穏やかに笑った。

 常高院は「兄っ子」であって、浅井万福丸は殊の外、幼い初姫を可愛がっていた。当然、万福丸の側近であった吉興は幼少のころから親しんだ相手である。

 吉興にとっては、浅井三姉妹の中では最も親しい相手である。


「この騒がしい時にお呼びしたのでございますから。早速本題に入りましょう」


 常高院は、手をたたいた。襖が開き、侍女が控えている。


「国松をこれへ」

「かしこまりました」


 しばらくすると、年の頃は六歳余りであろうか、幼い稚児が侍女に手を引かれて連れてこられた。

 国松と呼ばれる子は吉興の前で平伏する。


「国松。こちらが吉興様。偉いお方なのですよ。御挨拶なさい」

「京極家士田中六郎左衛門が一子、田中国松にございます」


 子供ながら通りのいい声であった。


「さ、お顔をあげなさい」


 あどけない顔が晒される。


「おお…おお、これは」


 吉興は震えを隠すことも出来ない。一粒、二粒、涙がしたたり落ちた。


「さ、もうよろしいですよ、国松。控えにお菓子を用意してありますからね。おあがりなさい」


 常高院がそう言うと、国松は満面の笑みを浮かべて立ち去ろとしたが、ふいに気づいて、常高院と吉興に一礼をして、立ち去った。


「太閤殿下に生き写しでございましょう? 不思議なものですね。秀頼殿はさして似ていらっしゃらぬのに。その御子が御祖父君に似るとは」

「やはり、やはりならばあの御子は」

「豊臣国松殿におわします。秀頼殿御自身を除けば、豊臣の唯一の男子、ということになりますね。秀頼殿の侍女が手つきになって、お産みになったのがあの子。残念ながらその女は出産の際にみまかりましたが。千姫の手前、私が預かって育てて参りました。こたび、大坂より指示がありましたので、数日内に大坂につれていき、豊臣家嫡子として広めることになりましょう」

「ならばそれがしも大坂入りつもりですので、同道させていただきたく」

「いえ、あなたさまには。もう一粒をお預けしたいのです」

「もう一粒」

「実は国松殿、双子でございました」

「なんと」

「このことは万一に備えて、大坂も知らず。私のみが存じ、手配いたしました。今は城下の本妙寺、真宗の寺に預けておりまする」

「いかなる御存念か」

「双子であれば家督相続の懸念があります。片方は殺めるが武家の倣いとも聞きましたが。私には出来ませなんだ。それに。此度のこと。豊臣は滅びるやも知れませぬ」

「…」

「さりながら、太閤殿下のお血筋は残さねばなりませぬ。秀頼殿が二条城に赴く際に、あなた様は、姉の茶々を亡き兄上の仇の子を産んだと罵ったとか。仰せの通りではございますが。太閤殿下もよるべない私ども姉妹を人がましく扱って下さった恩人にございます。恩は返さねばなりませぬ」

「それがしも今は豊臣の臣にて」

「なればこそ。太閤殿下のお血筋を佐助に委ねます。お恥ずかしながら。京極は小身。養子の忠高は将軍の婿にございます。私や松の丸様がいる間は保護が及ぶやも知れませぬが。忠高がこのことを知ればお家安泰のために、必ずやその者を抹殺しようとするでしょう」

「佐助であれば守れると」

「時康殿はあなたさまではあらせられませぬが、少なくともあなたさまの意をないがしろにはせぬでしょう。豊臣の血筋を、豊臣の軍師の家に委ねます」

「相分かりました。佐助末代までお引き受けしましょう」

「なれば早速、さして時の猶予がありませぬ」


 吉興はその足で、本妙寺に赴いた。

 慧生 ― その子が誰なのかは見ればすぐに分かった。木の葉は木の葉の中に隠せ。常高院は念のために、慧生と年回りが同じ慧仁、慧樂という小坊主を用意してあった。

 吉興はその小坊主三名、すべて引き取った。

 京極の武士の騎馬に負われて、夜を通し行軍し、明け方には吉興一行は道崇庵に着いた。


 道崇庵の家臣一同を集めて言う。


「めくらましのために、小坊主三名ひきとったが、実は、慧樂なる者、豊臣秀頼殿が一粒種である」


 余りの重大事に、今枝一学らは言葉を失う。


「これが右府様より賜りし形見の品である」


 一見、何の変哲もない印籠であったが、蓋をずらせばそこには、五七桐、豊臣関白家の家紋があった。


「一学よ」

「はっ」

「旧知の立花宗成殿が、陸奥棚倉において三万五千石の大名に復帰なされておる。そなたを仕官させるよう、依頼状を書いておいた。あの御方ならば無碍にはすまい。慧樂様、これよりそなたが一子、今枝樂丸となる。樂丸が身分を隠し、豊臣の血筋を伝えよ。皆の者は、一学に仕え、奥州へ下るがよい」

「大殿様」

「これが分かれぞ。この庵にある金銀はすべてもっていけ。そなたには、辛い役目を押し付けて申し訳ない。だが。樂丸がこと。頼んだぞ」


 そこからは皆、大急ぎで、半時もたたぬうちに旅装を整えた。

 今枝一学一行は、京を後にして奥州へ向かった。

 自らは、豊臣が一子を守っていると信じて。

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