第3話 殺意の獣

「うおおおおおォォ――ッ!!!」

 叫んだのに戦術的な意味はない。ただそうでもしないと体の緊張がほぐれないような気がしただけだ。

 そして勢いに任せて突進する。

 剣など必要ない。

 には邪魔にしかならないからだ。

 かすかな期待だったが、やつも少しは驚いてくれたようだ。

「獣人!?」

 違う。

 見た目は確かに獣人のようになってはいるが、おれはれっきとした人間だ。

 これがおれの奥の手。


 おれはちょいと特殊な一族の血を引いていて、そのお陰でちょいと特殊な魔法を身につけている。自分の闘志や殺意に魔力が呼応し、獣人のような姿に変貌するのだ。

 ただ、一般的な意味での獣人族というのは耳が獣と同じ位置にあり尻尾が生えていて人間より身体能力が高いという程度で他は人間と変わらないが、今のおれは二足歩行する人間大の狼というのが一番近い表現だろう。

 こいつは変身魔法の一種らしいが、詳しいことは知らん。だが母方の一族はこいつを無限の可能性のある魔法だといっていた。

 なぜかって?

 それはな、強さがおれの昂ぶりに比例するからさ。

 だからこそ、おれは今まで本気で怒ったり本気で殺意を抱いたりしないよう自制を心がけていた。そうしなければならない立場でもあった。

 いったい何度暴発しそうになったことか、数えればきりがない。

 だがもう、なにも我慢する必要はないんだ。

 すべてを捨てた人間が、今さらなにに気を遣う?

 すべてを捨てることと引き換えに完全な自由を得たんだ。だったらもう、すべてを目の前の化け物にぶつけたっていいだろう?

 対価が命だったとてなにを躊躇う。

 自由とはそういうものだ。

 おれは不自由な生を捨てる代わりに自由な死を得たのだ。

 憎悪や嫉妬、怒りや恐れが混沌と渦巻くあんなくだらない場所はもうたくさんだ。あそこで溜めに溜めた不満を殺意に変えて、目の前の化け物に押しつけてやる!

 それでも勝てる気はしないけどな!


 やつの放った赤い魔力――と、やつ自身の血液の融合体が鞭のようにしなりながらおれの進路を阻む。普通なら一撃で真っ二つなんだろうが今のおれならなんとか耐えられるはずだ。

 そう願いながら頭だけはガードしながら真っ直ぐ突き進んだ。

「いいわ……」

 と、やつが呟いたような気がしたが、気のせいか?

 おれは血の鞭を払いのけて渾身の一撃を叩き込む。

 まるで大木を殴りつけたような鈍い音がした。たぶん拳が砕けただろうがどうせすぐに治るから気にする必要はない。

 それよりもやつの前に現れた血の壁、見た目は薄っぺらいくせになんて硬さだ。やっぱり伝説は伊達じゃないってか。

 などと感心している余裕はない。その壁がおれを蜂の巣にしようと無数の棘になって迫ってきた。

 よけるのが精一杯で後手に回ってしまう。

 その間、やつは一歩も動くことなく薄く笑ったままこっちを見ている。

 せめてその余裕ぐらいはぶち壊してやろうと、でたらめに魔法を放った。ダメージを狙ったのではなく目くらましのためだ。

 天井や壁が崩れて瓦礫とともに大量の塵があたりを覆った。

 やつの攻撃が一瞬とまる。

 その隙をついておれは剣を引き抜いて投げた。

 当然、あっさり防がれる。

 そうでなければ陽動の意味がない。

 おれは剣と同じ軌道で既に走っていた。

 やつが反応するより早くその首をかき切らなければならない。

 果たして、やつは反応した。

 ただし、背後に。

 剣とともに上へ放り投げていた魔力を込めた鞘がやつの背中を狙っていたからだ。

 おれの拳が到達するより早く意図に気づかれてしまったが構いやしない。このまま殴り飛ばせればそれで充分!


 その瞬間、予想外のものが目に入った。

 おれの腕がなかったのだ。

 やつの顔面を殴りにかかっていた右腕が。

 下から突き出した血の剣に切断されたのだと理解したのは、どてっ腹にもでかいので穴を開けられてからだった。

 だがやつも無傷だったわけではない。切断されて吹っ飛んだおれの右腕がそのまま顔面を直撃し、右半面がごっそり削り取られていた。

 化け物とはいえ美女のそんな姿を見たくはなかったが、気遣う必要は皆無だ。なぜならすぐに煙を上げて修復され始めたのだから。

「私に傷をつけたやつなんて、いつぶりかしら……」

 グロテスクな状態で懐かしそうに微笑む姿はやはりグロテスクだ。

 なんていってられる場合じゃない。おれはすぐさま腹に突き刺さっている血の槍を左手で砕いて、そのまま殴りかかった。

 もう左腕以外を護る気などない。すべての力をそこに込めて、殴りつけた。

 やつは右手をかざして防ぐが、その細く白い腕をぐちゃぐちゃに粉砕しながら、再生途中の顔面に直撃する。


 成果は大きかった。

 世界最強のヴァンパイアの右腕と、顔の右半分。さすがのやつもふらついて血液で作った壁にもたれかかる。

 しかし対価も大きい。

 おれの上半身と下半身が完全におさらばしてしまった。

 ばっさりやられた下半身はその場で倒れ込み、上半身だけになったおれは殴りかかった勢いで壁に激突し、自分の半身の断面を眺めるはめになってしまった。

「うふふ……いいわ……あなた、すごくいいわよ……!」

 なにがいいのかさっぱりわからんが、もはやこれで決着はついた。

 この状態なら一応、パーツをくっつければ体は元通りになるが、どのパーツも手の届く範囲にない。魔力で引き寄せるほどの力も残っていない。

 対してやつは、グロテスクな笑みを浮かべながら余裕で再生中。

「殺すのは惜しいわね」

「一思いにやってくれ。無為に長生きしたくはないんだ」

 それを最期の言葉と決め、おれは目を閉じた。

 しかし、本当に惜しんでいるのかなかなかやつに動きがなかったから、我慢できずにやつを見上げた。

 いったいどういうことなのか、やつは、顔の半分を失いながらもなお美しい伝説の虐殺女王ブラッディー・クイーンは、なんともいいがたい表情でおれを見下ろしていた。


 それは憐みだろうか?

 いいや、違う。もっと複雑な感情だ。

 悲しみのような、怒りのような、今にも泣き出しそうでもあり、怒り出しそうでもある、そんな微妙な表情。

 やつの気に触れることでもいったのだろうかと、死に瀕していながらもおれは頭を捻ってしまった。


 その瞬間だった。

 突如、やつの腰から槍が生えた。

 いや、突き刺されたのだ、本物の槍に。

「あぐっ……」

 こいつにも痛覚はあったのかなどと思う暇もなく、事態は動く。

 その槍は斃されたはずの(というか死んだと思っていた)リエルのもので、次の瞬間にはゼルーグが大剣を振り下ろしていた。

 やつは辛うじてそれをかわし、反撃しようと左腕を動かしたところへ、ヒューレの矢が飛んだ。

 左肩と当たり所はよくなかったが、おれには充分な時間だった。

 三人がまとめて再び吹き飛ばされた瞬間を狙って、おれは腕一本で飛びかかった。


 牙を殺意で塗り固め、炎をまとい、ヴァンパイアの喉元目がけて――


「あッ……!?」

 やつの白く艶めかしい首を噛み千切り、その勢いのままおれたちは鮮血を撒き散らしながら倒れ込んだ。

 ダメ押しに心臓にも一撃くれてやれればよかったが、これが本当に最後の足掻きだったらしい。炎に包まれながらおれはやつの、悲しそうな、不愉快そうな、しかしなぜか嬉しそうにも見える奇妙な表情を目に焼きつけたまま、深い闇に落ちた。

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