第53話 元気100倍パン、誕生の瞬間
開店直前のホールで、おれたち三人は慌ただしく準備している給仕たちをよそに翁を囲んで固唾を呑んだ。
この爺さんはもはや食事をする必要のない体だとかで、あんこ餅も食うわけじゃない。先日漬物の試食を頼んだときもそうだったが、この爺さんにとっての試食ってのはあくまでも舌で味を確認するとか指で食感を確かめるとか、その程度のことだ。決して食べ物を口の中に入れることはない。どうなってやがるんだかな。
そういうわけで翁はまず匂いを確認し、ナイフでほんの少しあんこを削り取ってぺろりと舐めた。
「ほうほう……」
「どうだ?」
「うむ、初めてにしては上出来じゃな。それらしい出来になっておるわ」
「そうか、よかったぜ……」
「どれどれ、餅のほうも……」
そういってナイフを突き刺したが、そこで一瞬不自然に動きがとまったのを、おれは見逃さなかった。
翁は無言のままあんこ餅を切り開き、餅の断面を見る。
表情でわかる。
やっぱりこいつは、失敗作だったんだ……
「米か?」
「うむ」
おれが気になっていたこと。それがまさに米だった。
なぜなら炊き上がったあとに、ジョーに聞いていたほど水分も粘り気もなかったからだ。
「炊き方か?」
「いいや、それ以前の問題じゃな。これはシンドゥカ米であろう」
「シンドゥカ米?」
おれたち三人は思わず顔を見合わせてしまった。
「鉄之丞から聞かなんだか? 米にはシンドゥカ米と水米があり、餅に適しているのは水米のほうであると」
「いや……」
迂闊だったぜ……
いわれてみりゃあそのとおりだ。作物には同じ種類でも様々な品種があるんだから米にだって色んな品種があって当然なのに……!
「あやつめ、近頃はシンドゥカ米で妥協しておったからすっかり失念しておったのだな……すまんかったの」
「いや、構わん。教えてくれ、シンドゥカ米と水米ってのはどう違うんだ?」
「うむ、まずシンドゥカ米というのはだな……」
翁の話を要約すると、だ……
米には大きく分けてシンドゥカ米と水米の二種類がある。このうちメジャーなのはシンドゥカ米のほうで、米を食べる民族が口にする米のおよそ九割がこっちだ。
対して水米は大陸極東のシャルバニールと海陽ぐらいでしかほとんど出回っていない。
余談だが、水米という名はややこしくならないようにするための便宜上の呼び名で、シャルバニールはシャルバニカ米、海陽ではファイネニカ米と、それぞれ主張しているらしい。
しかし呼び名を統一するにしてもなぜ水米という名になったかというと、それはシンドゥカ米に比べて遥かに水分が含まれているからだ。そのうえ糖分も多く、シンドゥカ米があくまで調理するおかずの一種として扱われているのに対し、水米はその豊富な栄養素から主食としての地位を築いている。
そして、餅特有のふっくらねばねばした柔らかい食感を出すためには、水米が最適である……
まあ当然だわな、海陽の食べ物なんだから……
「冒険者の非常食とするにはこれでも充分に贅沢な代物じゃが、この店で売り物にするとなるとわしは納得がいかぬな」
ごもっともだ。おれだってまずは完璧なものを作らねえ限り納得できねえ!
「水米を仕入れる必要があるな……」
「しかし極東から仕入れるとなると相当に時間も金もかかってしまうぞ」
「このへんで水米を栽培してる国はねえのか?」
「わしも随分長生きをしておるが、とんと聞かぬな」
「うおおおぉ……! 夢の海陽食が……幻に……!」
「ふむ……稲の種さえ手に入ればわしが栽培法を教えることはできるが……」
「本当か!?」
「このあたりの気候は水米を作るには適しておるしな」
なんでもできるなこの爺さん!
「しかし、稲田をどこにどれほどの広さを用意し誰が管理するか。そしてこの国の者たちにとっては未知である料理への需要の多寡……」
「ぐっ……」
「それらを店長どのがどう判断するかであろうな」
今のこの町の発展ぶりを見るとそこそこにウケそうな気はする……となると米に限らず自前の農場を建ててこのへんじゃあ手に入りにくい作物をできる限り栽培するってのも手だ……
しかしそいつを巧く回すためにはまず客に正しい異国料理を受け入れてもらう必要があり、そのためには手に入りにくい作物が必要……
……堂々巡りだ。
そもそもおれは経営に関しちゃあ素人も同然だ。やっぱりまずは店長に相談するしか……
いや……
待て……
完璧なあんこ餅を食うためなら、あの奥方なら……!
「先生、悪い顔になってますよ……」
ハッ!
いけねえいけねえ、おれとしたことが……
「まあそれはおいおい考えるとして、あんこのほうはなかなかよい出来じゃ。小豆自体も質がよい。どこのものじゃ?」
「確か、イルーンの商会から買い付けたとか聞いたが」
シェランの東隣の国だったかな。
「イルーンか。そういえばあの国は穀物が豊富であったな」
「……もしかして爺さん、小豆の栽培法も知ってるか?」
「むろん、知っておる」
「マジか!」
ホントなんでも知ってるなこの爺さん!
「しかし小豆を栽培するくらいならばサトウキビを栽培したほうがよいのではないか?」
爺さんにまで苦笑されちまった……
そりゃそうだ、この店じゃあ(主に奥方のお陰で)砂糖の消費量がとんでもないことになってやがるからな……高いんだよ、砂糖は!
しかしだからこそ砂糖を輸入じゃなく生産できるようになれば相当に出費が減る。
アリだな、サトウキビ。
「ところでこのあんこですけど」
と、サロが口を挟んだ。しかもその口にはあんこが……
「おまえ、ずっと食ってたのか……」
「はい、けっこうハマってます。で、このあんこですけど、これだけでメニューに加えることはできないんでしょうか?」
意外だな。
ヒューレならともかく、甘い物が苦手なはずだったサロがここまでハマるとは。
「できなくはないであろうが、東の人間からするとちと物足りぬな」
「そもそもおまえ、甘味を甘味だけで出すってのはフセッタスを中身だけで出すようなもんじゃねえか」
そんなの奥方以外に喜ぶやつはいねえぞ。
普通はカスタードプリンやチョコレートのような単品スイーツだってそれ自体は甘さを控えてるし、アイスクリームにはフルーツやクッキーなんかをつけて食べるのが普通だ。クレープにもまったく甘くない皮があるから甘さ控えめでも甘さが引き立つんだ。
スイーツをスイーツの甘さだけで楽しむってのは、奥方並みの上級者にしかオススメできない。
「いいですね、それ」
というサロの意外な反応に、おれの頭上にはドデカいハテナマークが浮かんだ。
「フセッタスみたいにパンに挟んでみるっていうのはどうでしょう?」
その瞬間、おれの脳裏には様々な種類のパンとあんこの組み合わせが雷光のように駆け巡った!
「おまえ天才か!?」
「やるのう、若いの」
「フセッタスにあんこを……うん、いいかもしれない」
「でしょう?」
「よし、すぐに全種類のパンで試すぞ! 最適な組み合わせを見つけるんだ!」
「まあ待て、料理長。せっかくじゃ、わしも久々に本気を出したくなってきたわ」
「まさか爺さん……」
おれの興奮は最高潮に達した。
「わしを厨房に入れてくれぬか。本物のあんこというものを見せてやろうではないか」
「願ってもねえ! ぜひ教えてくれ!」
「よろしい、弟子にしてしんぜよう」
こうして店長と奥方が帰ってくる直前に、この店ではひとつの革命が起こった。
まだまだ研究の余地はあるものの、完成したそのパンの名はもちろん……
そう。
アンパンだ!
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