第8話 夢の余韻

『♪♪♪♪♪♪♪♪』


フロアの静寂を破って、鳴り響くアラーム音に、私はビクリと体を震わせた。


「あっ……す、すみません!」


そう謝って、私は社長の膝の上から下りると、自分のデスクに置いてあったスマホのアラームを消す。午前0時まで待って、東条社長が来なかったら、諦めて帰るためにセットしたアラームだ。


まさかこんな形で、このアラームを聞くとは全く予想してなかったけど……。


「日付が変わりましたね」


背中越しに響いてきた声に、少しだけ静まっていた鼓動が、また激しさを増す。


「は、はい……」


振り向くことも出来ないまま、小さく答える私。


「君は、電車通勤ですか?」


「えっ……あ、はいっ」


「では、もう帰らないと」


そう言うと、東条社長は、私の背中越しに腕を伸ばしてきた。


「……っ」


彼の体を背中に感じて、鼓動が波打つ。


でも、彼の腕が伸ばされたのは、私の体に触れるためじゃなくて、立ち上がったままのパソコンのマウスに触れるため。


「パソコン、落としますよ」


しなやかな長い指先が、マウスを動かす。さっきの膝の感触と、目の前の艶やかな指先に、一人でドキドキしていると、パソコン画面がシャットダウンされた。


「……ありがとうございます」


真っ暗になった画面が、この短い夜の夢の終わりみたいで、ちょっと寂しい……。


「では、気をつけて帰ってください」


社長はそれだけ言うと、私から、すっと離れてフロアの入り口に向かっていく。


「あ、あの……!」


その背中を夢中で呼び止めた。


長身の背中が、ゆっくりと振り向く。


「また……会えませんか?」


静かなフロアに、私の声だけが響いた。少し離れた距離から、闇色の瞳が私を捉えている。さっきのキスなんて、何でもなかったかのように冷静な視線。


(私のこと……どう思ったの?)


それとも、何にも感じなかったの?


いきなり夜のオフィスで待ち伏せされて、チョコ押し付けられて……迷惑だった?


でも、それじゃ、どうして……。


あんなキスしたの?


言いたいことは溢れるほどあるのに、ただ彼の返事を待つことしか出来ない。


すると、心の中で一人葛藤する私の耳に、低く甘い声が伝わってきた。


「君のパソコンに、新しい番号が入っています」


東条さんの声に、私は自分の世界から引き戻される。


「……えっ?」


突然の言葉に、その意味が理解できない。


「会いたくなったら、その番号にかけて」


また掻き回された頭の中を整理する。


それって、つまり。


東条さんの番号ってこと?


「あ、あの……!」


「お休みなさい。綾瀬 結衣さん」


戸惑う私をそのままに、そう言って社長はフロアを一人出ていった。


また、フロアに一人になった私は、この短時間の緊張から解放されて、崩れるように椅子に座る。力を使い果たした心に、じわじわと嬉しさが込み上げてきた。


「名前……呼んでくれた」


呟きながら、首に掛かった社員証に手を当てる。いつもは味気ない、ただのカードなのに、何だかあったかく感じた。


「でも、いつの間に、番号なんて打ち込んだんだろう?」


資料の間違いを直してくれた時は、その画面しか表示されてなかったし。


うーん……。もしかして、私が、鞄からチョコレートを出す時、かな?


とにかく……番号を教えてくれるってことは、少しは気になってくれたって、思っていいんだよね?


そして、私は終電があと何分かってことよりも、東条さんの番号が気になって、一度落とされたパソコンをまた立ち上げる。明かりを取り戻していく画面に、心が弾んだ。


これが……彼と、私の。


チョコレートみたいに、


甘く苦い、恋の駆け引きの始まりだと。


気づかないままに……。

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