第70話 噂

「結衣、あんた最近綺麗になったね」


いつものイタリアンでお昼を食べていると、向かい側に座る菜々美が、私を見つめながら言った。


「そうかな?」


答えながら、フォークにボンゴレのパスタを巻きつける。


「うん。女の私がドキッとするくらい。上手くいってるんだね、社長と」


「え……ま、まあね」


私はパスタを口に運んだ。


確かに、あのホテルで一晩過ごしてから彼は変わった。以前は、いつも会うのは突然だったけど、今はほとんど前もって約束して会っている。いつ会えるのか分からない不安がなくなった。


だけど……あの夜から、なぜか。


社長は私に触れなくなった。


手を繋いだりとか、軽く抱きしめたりだとか、そんなことはある。


でも、あれ以来キスを一度もしていない……。


私が思いきり拒んだから、嫌になったのかな……?


でも、前以上に会ってるし、二人きりの時はお互い下の名前で呼びあったりしてるのに。


どうして、キスだけないんだろう?


私は目の前の菜々美を見つめる。


綺麗に塗られたマニキュアの指先が、グラスを傾けた。恋愛のスペシャリストがこんな近くにいるのに、上手くいってる風に答えてしまった手前、聞けない。


ランチを食べ終わり、外回りに向かう菜々美を見送って、私は一人職場に戻った。


しばらくパソコンで入力作業をしたり電話を取ったりしていたけど。3時になって、私は軽くメイク直しに行こうと席を立った。


化粧室に行って、鏡の前でコンパクトを取り出す。私が入って来る前から、数人の女子社員がいて、彼女達の会話が自然に耳に入ってきた。


「ねぇねぇ、聞いてよ。私、この間見ちゃったの!」


興奮気味の女子社員に、他の女子社員が聞く。


「何を見たのよ?」


敏子としこ様が恋人と一緒のところ」


「え!?あの人、彼氏とかいんの!?」


「それがいたんだよ。しかもビックリする相手」


敏子様とは、営業事務のお局的存在の楠田 敏子さんのことだ。


「誰よ。早く教えてよ」


「何と営業部長の笹山さん」


「え~!?あの人、部長と付き合ってんの!?」


「超意外!」


「でしょ、でしょ?二人でバーで飲んでたらしいよ」


「何か全然想像つかないわ~」


「いつもきっちり結んでる髪をほどいて、黒のスリップドレス着てたって」


「マジで?」


女子社員達は、部長と楠田さんの話題で盛り上がってる。


まあ確かに、すごく意外な取り合わせだ。菜々美が言ってた、楠田さんは意外な人と付き合ってるっていうのは部長のことだったんだな。


社内恋愛って、やっぱり結構あるのかな。社内恋愛で結婚して退社した先輩もいるし。


そして、東条社長の顔をふと思い浮かべる。


(私達だって社内恋愛。しかも相手が社長なんて……ここにいるみんな知ったら、今の何倍も驚くだろうな)


そんなことを思いながら、私は化粧直しを終えると化粧室を出ようとした。


その時だった。


「私、もっとすごい噂知ってるけど」


不意に、セミロングの明るい茶髪の女子社員の声が響く。


「何よ、あんた。もっとすごい噂って?」


その言葉に、彼女が答えた。


「東条社長の」


思わず足が止まる。


「東条社長のどんな噂?」


「なになに、付き合ってる彼女いるとか?」


その場にいた女子達が一気にざわつき始めた。


そして、切り出した女子社員は思いもよらない言葉を言う。


「東条社長に、子供がいるっていう噂」


(えっ……!?)


胸がどくんと大きく波打った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る