第69話 忘れていた約束

泊まった部屋を後にして、廊下でエレベーターを待っていると、彼が言う。


「この高層階に宿泊すると、38階のクラブラウンジで朝食が食べられるので、食べていくといい」


その時エレベーターが止まり、ドアが開いた。東条社長に続いてエレベーターに乗ると、階下へと降りていく。


「司さんは食べないんですか?」


「私は時間的に無理だな」


何だ、私一人か……。初めて一緒に朝ごはんを食べれるのかなって思ったから、ちょっと残念。


そんな私の表情を読み取ってか、東条社長が言った。


「このラウンジの食事は、なかなかいい。特にオムレツが美味しいよ」


そう言われると、ちょっとだけ楽しみになる。そんな他愛ないお喋りをしているうちに、エレベーターが38階で止まった。二人で降りると、彼が言う。


「私はこのままチェックアウトして仕事に行く。また連絡するよ、結衣」


そう言った後、東条社長は私の肩を引き寄せると額に軽いキスを落とした。


この階でもチェックアウト出来るらしく、社長は手早く済ませると、またエレベーターの方へと去っていく。私は、その姿を見送ってから、彼オススメの朝食を食べることにした。


「美味しい!」


半熟の卵の中から、とろりとしたチーズが溢れてくる。やっぱり教えてもらった通り、オムレツが特に美味しい。自分で作っても、こうは出来ない。そんな朝食を楽しんでいると、バッグの中でスマホが振動した。


(社長……?)


私はフォークとナイフを置いて、バッグからスマホを取り出し、着信画面を見てハッとする。


それは……佐倉さんからの着信。


そう言えば、先週会ったときに次の土曜日を空けておいてと言われてたことを思い出した。慌てて彼の電話に出る。


「もしもし」


「綾瀬おはよ」


「お、おはようございます……」


「今日約束してたよな?」


疑いなくそう言ってくる彼に、じわりと罪悪感が芽生えた。


「あ、あの……」


「今日はちゃんとプラン立ててるんだ。今から家出ようと思ってる。そっちには10時過ぎには着けるよ」


……今から帰れば、佐倉さんと家で待ち合わせ出来るだろう。


でも、時間的に出来るとか出来ないの問題じゃなくて、あの時迷ってた気持ちが、この一夜で完全に東条社長に傾いてしまった。


今日、佐倉さんと二人で会うことは考えられない……。


「佐倉さん」


「ん?」


「その……ごめんなさい!」


「……え?」


「今日は行けなくなりました……」


「……」


途端に、スマホの向こうが沈黙に止まる。


「せっかく誘ってもらってたのに、ごめんなさい」


断る理由を聞かれたら、どう答えようか?無難に予定が入ってって言う?それとも東条社長のことを言う?言うとしたら、どこまで……?


胸の鼓動が早まる。


そんな私の耳に響いてきた言葉は。


「……そうか。分かった」


ただ一言だけそう言うと、佐倉さんからの電話は切れた。


「……」


ゆっくりとスマホをバッグに戻す。いろいろ聞かれるのも戸惑うけど、こんな風に切られるのも罪悪感を感じた。


何となく分かっちゃったんじゃないかな、佐倉さん。


(これじゃ、まるで)


私が駆け引きをしてるみたいじゃない……。


それからは佐倉さんへの後ろめたい気持ちに、朝食を食べ終わるとすぐにホテルをチェックアウトした。


土曜日の朝は平日と違って混みあっていなくて、ゆったりとしている。電車の座席も人がまばらなため、余裕で座れた。


でも、気を紛らわすことが出来なくて、何となく佐倉さんのことを引きずったまま帰宅する。


朝帰りしてしまったことを親に言われるかなと思ってたけど、不思議と触れられず、普通に「お帰り」と言われて少し戸惑ったくらいだった。

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