第68話 幸せな朝
「ん……」
目が覚めて、ぼんやりとした視界に入って来たのは、私を見つめる切れ長の瞳……。
「……っ」
社長が昨夜と同じく、私を抱き締めたまま、こちらをじっと見つめている。
「社ちょ……じゃない、司さん。いつから起きてたんですか?」
社長と言いかけて、昨日の約束を思い出して言い直した。
「そうですね、20分前くらいに」
そ、その20分間、ずっと寝顔を見られてたのかな。変な寝顔したり、変な寝言言ったりしてないよね……。
「よく眠っていましたよ。だから起こさないようにしていました」
「あ……ありがとうございます」
顔が熱くなりながら、私は言った。それから、ハッとして聞く。
「あの、お仕事の時間、大丈夫ですか?」
部屋の時計を見ると、朝の8時30分になっていた。
「そろそろ準備をしないといけませんね」
社長は、私の体をそっと離すと、ベッドから起き上がる。
「シャワーを浴びてくるので、ゆっくりしていてください」
そう言って、東条社長は、ベッドルームを後にした。私は広いダブルベッドに、一人ごろんと横になってみる。
まさか、このホテルで一夜を過ごすとは思わなかった……。
(だけど、何も、そういうことはしなかったんだ、社長……)
夜から朝まで、東条社長は、ただ私を抱き締めたまま眠った。普通だったら、二人で泊まって、そんなことありえないかもしれない。
だけど、きっと彼は、私が安心できるように、あえて抱き締める以上のことをしなかったんだと思う。そんな彼が、前以上に愛しくて、もうすぐ別れるのが寂しい……。
しばらくベッドの上で、一人、昨日の夜の記憶をぼんやり手繰り寄せていた。
でも、いつまでも、この格好でいるわけにはいかないし……。
私は、クローゼットから、自分の服を取り出すと着替えた。
大きな窓から、階下を見下ろすと、街はもう動き出していて、そこには静かな夜の余韻はもうなく、慌ただしく動く車の波や、移動するたくさんの人の姿が見える。
そんな朝の風景を見下ろしていると、東条社長が戻ってきた。昨日とは違う濃紺のスーツを着ている。
「結衣」
「はい」
呼ばれて、彼のところに行くと、ネクタイを渡された。
「結んで」
「えっ……」
ネクタイを私が?社長、いつも自分で結んでるんじゃ……。そう思ったけど、そのネクタイを受けとる。
「失礼します」
爪先で背伸びして、ワイシャツ越しにネクタイをかけると、私は、そのネクタイを結ぼうとした。……したけれど、上手く結べない。
「あ……すみません!」
結ぼうとするほど、おかしな絡まり方をしていく。小さな苦笑と共に、社長の手が、すっと伸びてきた。
「付き合っている男のネクタイを結んだことは?」
メチャクチャに結ばれたネクタイを解きながら、聞かれる。
「ないです……。私、社会人になってから彼氏がいたことがないので」
「……なるほど」
そう言うと、東条社長の手が、私の手の上に重なった。
「では、今覚えて」
私の手に重ねられた、彼の手が、解かれたネクタイをもう一度結んでゆく。慣れた手つきで、ネクタイは綺麗に結ばれた。
「行こうか」
東条社長の手が、私の手をそっと離す。
「はい」
私は、彼の後に続いて、部屋の入り口に向かった。
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