第3話 憧れの彼が……

数日前の菜々美とのやりとりをぼんやり思い出して、私は一人でムッとした。


「ランチで、何食べようと勝手じゃない。ミートソースじゃなくて、ボロネーゼって言ってよねっ」


そう呟いてから、ハッとしてオフィスの壁掛けの時計を見上げると、11時ジャスト。


(じゅ、11時になった……!)


途端に、心臓が早鐘を打ち始める。


(ほんとに、来るのかな?東条さん……)


聞き耳を立ててみるけど、何の気配も物音もしない。


やっぱり、ただの噂かな?いや、でも、実際見た人いるって言ってたし……。


「ずっと緊張してたら、喉乾いちゃった」


ほんとはジュースを飲みたかったけど、今月は思わぬ出費がかさんで、財布が悲鳴をあげている。


「お茶入れてこよ」


私はデスクを立つと、給湯室に向かった。無人の廊下に、私のヒールの音だけが響く。


給湯室の電気をつけ、ポットのお湯を沸かし、急須に茶葉を入れる。コーヒーは苦手だから、飲む時はいつも緑茶だ。


お茶をセットし終わって、少しだけ廊下に出たけど、やっぱり物音もしない。


「やっぱり、噂かな……」


誰もいない廊下に、独り言が虚しく響く。


いや、もしかして。今日はバレンタインだから、恋人と過ごしてて、だから見回りしないとか?


だったら、こんな深夜のオフィスで、一人で待つの無意味だよ……。


「やっぱ、お茶飲んだら、帰ろ」


私は給湯室には戻らず、課の部屋に戻った。お茶が沸く前に、帰れる用意をしてしまおうと思って。


私は、デスクに出していた資料を引き出しにしまっていった。


そして、パソコンを切ろうと、マウスに手をかけた、その時。


静寂の中、フロアのドアが開く音が響いた。


「え……」


もう、全然期待していなかっただけに、心臓が止まるぐらい驚く私。


「まだ、いたんですか?」


電気を消してあるフロアの入り口に、長身の淡いシルエット。


噂、ほんとだった……。


そこには、憧れのままの『彼』が、フロアに残る私を真っ直ぐ見つめている。


「あ、あの、ええっと……!」


いつも遠くから一方的に見るだけだった彼の視線をいきなり受けて、私は機械仕掛けの人形みたいに、椅子から立ち上がった。


完全にテンパった私の口は、まともに機能しない。そうしてる間にも、彼はカツカツと聞き心地のいい靴音を鳴らしながら、こちらに向かってくる。


体が、驚きと、込み上げる喜びで震えた。

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