第4話 砕け散っても

彼は私のすぐ目の前まで来ると、その足を止める。ヒールを履いて、160センチちょっとの私は、彼を見上げた。


今夜の彼は、入社式と同じダークグレーのスーツを着こなしている。切れ長な黒い瞳は、夜を思わせるほど深くて、こちらの心を見透かしているような……そんな色をしている。


「こんな時間まで、残らなければならないほどの仕事を?」


東条さんは、私のデスクに片手を置くと、そう聞いてきた。


「あ、あの……!」


彼の甘く低い声に、頭がスパークして、用意しておいたはずの理由が口から出てこない。


直接触れられたわけじゃない。彼が、私のデスクに触れた……ただ、それだけなのに。鼓動が暴れて、胸を突き破ってしまいそう……。


「プ、プレ……っ!」


「はい?」


完全に挙動不審な女子社員に、東条さんの声が柔らかく聞き返した。私は、窒息寸前の喉を軽い咳払いで整えると、ゆっくり答える。


「プ……プレゼン用の資料が、なかなか進まなくて……!」


おバカな私だけど、こんなに日本語を話すのが、難しいと思ったことはない。ずっと離れた距離から見てきたのに、こんな突然、触れあえそうな距離に詰められて……。気を抜くと、意識を手放してしまいそう。


私は、東条さんをまともに見ることすら出来ず、フロアの無機質な床に視線を落とした。


「……」


しばし、訪れる沈黙。


へ……変な女と思われたかな?それとも、こんな時間まで残業しなきゃいけないくらい、使えない社員って思われたかな?


何かどう転んでも、悪い印象しか浮かばないんだけど……。


全く本題にもいけてないのに、自己嫌悪で、すでに泣きそうな私。


『じゃあ……玉砕してきな』


狼狽える心の中で、菜々美の鋭い言葉を反芻した。


(いや、これは、もう……。玉砕以前の問題だよ……)


そんな心が壊れかけた私の耳に、また甘く低い声が響く。


「このグラフ、間違っていますね」


……え?


思わぬ一言に、私は顔を上げた。


「ここです」


そう言って、東条さんは、立ち上げたままの私のパソコンの画面を折り曲げた人差し指で、コンコンと叩く。私は、東条さんと、より近づいてしまうことも忘れて、思わず画面に顔を寄せた。


「この資料と比較してください。数値が、おかしいですね?」


東条さんの指が、今度は、先程のグラフの隣に表示されている資料を指す。


「あっ……ほんとですね!」


指摘通り、比較してみると確かに間違っていた。


「す、すみません……!すぐに直します!」


残業の口実とはいえ、ちゃんと作ってたはずなのに。よりによって、東条さんに間違いを指摘されるとか。


私は、どんだけ馬鹿なの……!


またしても、自己嫌悪に押し潰されそうになりながら、私が、パソコンのマウスに手を伸ばしかけると……。私の手が掴むより速く、東条さんの指先がマウスに触れた。


「君が直すと、また時間が掛かりそうだ」


そう言って、東条さんは、マウスを素早く動かした後、パソコンのキーボードを私の倍の速さで、打ち込み始める。しなやかに動く東条さんの指先が、私の作った画面を綺麗に塗り替えていく。


その仕事の速さ、的確さに、心打たれながらも。


私は。


ちょっとだけ、不謹慎な妄想をしてしまった。


あの長い指先で、触れられたら。


どんなだろうって……。


「これで、大丈夫でしょう」


東条さんの声に、不埒な妄想を一気に頭の外に追いやると、私はパソコンの画面を確認した。


「あ……は、はい、直ってます!……ありがとうございました!」


私は、過去にないくらい深くお辞儀をした。


「では、これで解決ですね。もう、30分程で日が変わってしまいます。君は、帰るように」


「え……あ、あの……っ」


マズイ。このままだと、本当に、玉砕すらできないまま終わっちゃう。例え、無様な爪跡でも。せっかく、こんな風に会えたんだもん。精一杯、頑張って砕け散りたい……!


今にも、フロアの入り口に行ってしまいそうな東条さんに向かって、私は喉の奧から声を振り絞った。

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