4 兄弟
竹刀を構えて兄とにらみ合う。
どうしてこんなことになった、と紅葉は思った。
周囲には好奇の視線で満たされた門下生たちが並んでいる。
端には師範代の姿もあって暗くなった道場の燭台に火を灯している。
時間がないから早く始めろという無言の圧力を感じた。
「準備はいいか?」
自然体で竹刀を下げた陸玄が問いかける。
紅葉は首を縦とも横とも取れる微妙な動きで振った。
陸玄はニコリと笑って竹刀を構えた。
どうやら肯定の意に受け取られてしまったらしい。
やるしかない。
覚悟を決めた瞬間。
陸玄が打ち込んできた。
速い。
門下生に稽古をつけていた時とはまるで違う。
一瞬にして目の前に移動してきたような強烈な打ち込みだった。
しかしまだ本気ではない。
その証拠に紅葉は難なくそれを躱すことができた。
大振りの一撃は打ち込んだ後に大きな隙ができる。
ガラ空きの胴を薙ぐように反撃の竹刀を振るった。
だが陸玄は超人的な反応でそれを容易く避けてみせる。
紅葉は大きく後ろに跳んで距離を開いた。
門下生たちから歓声が上がる。
場の盛り上がりに反して静かに睨み合う兄弟はしばし動きを止めた。
実は陸玄同様、紅葉もまた常人から見れば逸脱した身体能力の持ち主である。
剣術も嫌いではないがお遊び同然の稽古よりは読書の方が好きなだけだ。
家に帰れば小道場で毎晩のように倒れるまで模造刀を振るっている。
これは想像だが、もしかしたら陸玄は門下生の誰かが紅葉を悪く言っていたのを耳にしたのではないだろうか。
紅葉は無気力で弱い等の勘違いを解くために模擬試合を行って弟の実力を見せつけてやろうと思ったのでは。
だったら余計なお世話である。
紅葉は別に門下生たちから勘違いを受けようが気にしない。
しかし、そんな兄の心遣いは素直に嬉しいと思った。
感謝の気持ちを伝えるために必要なのは言葉ではない。
全力で挑むこと。
もちろん結果はわかりきっている。
毎晩のように、それこそ今朝の早朝稽古でだって身に染みるほど思い知らされている。
今の陸玄は門下生たちに見せるため明らかに手加減してくれている。
真剣での勝負ならば無駄に刃をぶつけ合ったりはしない。
剣を振るのは確実に相手を仕留める時のみだ。
町剣術の稽古の感覚で実践を行えば手痛いしっぺ返しを食らう。
さっきの陸玄の動きは隙を見せて反撃を避けることまで含めたデモンストレーションだ。
紅葉は動かない。
表情は真剣そのものだ。
門下生どころか師範代ですら息を呑んで二人が次に動く時を見守っている。
そんな中で陸玄だけが嬉しそうに表情を崩していた。
馬鹿にされているとは思わない。
これは自分にはない兄の天性の素質である。
陸玄が動いた。
その瞬間を紅葉は予測できなかった。
気を張る必要も無表情を繕って気配を隠す必要もない。
陸玄は笑顔のまま脈絡もなく相手に打ち込める。
疾風のような突き。
紅葉は避けるだけで精一杯である。
体勢を立て直そうとした直後、脇腹に鋭い痛みが走った。
陸玄の振るった竹刀が見事に紅葉の身体を打ち据えたのだ。
二の太刀にも紅葉はまったく気がつかなかった。
「ぐっ……」
思わず蹲りそうになる。
普通はここで試合終了である。
だが紅葉は痛みに耐えて身を起こした。
全力で竹刀を振る。
ガムシャラな一撃ではない。
今なら確実にカウンターを狙えると確信しての反撃だった。
自分はまだ生きている。
ならば肉を切らせて骨を断つ。
体に染みついた闘争心が紅葉に最後の反撃を行わせる。
だが陸玄はそれすらもあっさりと躱した。
鼻先を竹刀の尖端が掠める瞬間も変わりない笑顔を浮かべて。
力が抜けた紅葉は今度こそ竹刀を落とした。
師範代の「それまで!」という声が随分と遠くに聞こえた。
※
陸玄と紅葉は夜の帳が下りた県道を並んで歩いていた。
帰りはほとんど上り坂のため、ゆっくりと歩いて戻るしかない。
陸玄は二人分の竹刀とキックボードを抱えながらスタスタと先を歩いていたが、紅葉が苦痛の表情で脇腹を抑えたのに気付いて立ち止まった。
「痛む?」
「いえ、大丈夫です」
嘘だ、本当はすごく痛い。
何せ竹刀とはいえ思いっきり叩かれたのである。
それは偏に陸玄がまったく力を加減しなかった証拠でもある。
陸玄は門下生への稽古でやっているように当てる直前に力を抜くことはしなかった。
それは紅葉が門下生と比べて遙かに手強いためであるが、二人の間にはまだまだ大きな差があるのも確かである。
それに竹刀を振る力だけは本気だったとしても陸玄には終始余裕があった。
自分と兄では剣士としての技量はかけ離れている。
しかし悪い気分ではなかった。
兄の背中がまだまだ遠いと知って悔しいと思うよりも誇らしい気持ちで満たされる。
「背負ってあげよっか」
「馬鹿にしないでください。それより竹刀を、それくらい自分で持てますから」
からかうような口調の陸玄を睨みつけ、ひったくるように竹刀を奪う。
また脇腹は痛かったが表情には出さないように努めた。
兄に剣術で敵わないのは仕方ないが子ども扱いされるのは悔しい。
どうせ帰ったらまだ厳しい稽古が待っているのだ。
弱音を吐いている暇なんてない。
荒れ果てた県道にはもちろん明かりなど存在しない。
あの灰色の柱にくっついている道具が以前は電気の力で光を放っていたらしいが、それも十三年前までのこと。
いま辺りを照らすのは月と星々の明かりだけだ。
「あのさ、ごめんな」
しばしの沈黙の後、陸玄がなぜか謝ってきた。
「何がですか。大丈夫だって言ってるでしょう」
「叩いたことじゃなくて。紅葉は目立つのが嫌いなのに、あんな風にみんなの前で試合なんてやらせたことを怒ってるんじゃないかと思って」
紅葉はしばし目をぱちくりさせて陸玄の横顔を眺める。
やがて堪えきれずに吹き出してしまった。
「なんだよ」
「いえ。兄上にもわからないことはあるんだなって安心しただけです」
怒るなんてとんでもない。
むしろ兄の気づかいには感謝しているのに。
普段の帰り道は門下生の誰がこう言った誰がああしたとやかましい兄。
珍しく口数が少ないと思ったらそんなことを気にしていたとは。
「それってどういう意味?」
「知りません」
紅葉はぷいと視線を逸らした。
ちらりと見れば陸玄は唇を尖らせなにかぶつぶつと呟いている。
どうやら逆にへそを曲げさせてしまったようだ。
しばらくして陸玄の呟きも消える。
二人は黙って夜道を歩いた。
太陽は沈み、夜の帳が辺りを支配する。
どこからか梟の声が聞こえてくる。
まるい月の温かい光が二人の行く道を照らしていた。
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