5

 紅葉の住む家は学校から二〇キロほど離れたところにある丘の中腹に建っている。


 見るからに上流階級然とした邸宅だが、別に良家の生まれというわけではない。

 門には『中村青年福祉園』と書かれた看板が立て掛けられている。

 身寄りのない少年たちが暮らす養護施設なのだ。


 通学用スクーターをガレージに停め、半帽ヘルメットを脱いだところで背後から声をかけられた。


「よおクソガキーィ、なにやら事件を起こしやがったらしいじゃねえーかー?」


 短身痩躯の中年男性である。

 奇妙に間延びした喋り方はいつものこと。

 だがその声色には明らかに不機嫌の色が滲んでいた。


 頭一つ分低い位置から睨みつけるような目で見上げてくる男は養護施設の中村園長である。

 都から派遣された雇われ役人であり少年たちに対する態度には愛情の欠片もない。

 今も外で面倒事を作ってきた紅葉を糾弾しようとしていた。


「……すみません」


 今朝の駐輪所での先輩との一件は当然ながら親代わりである園長にも伝わっている。


 不良に暴力を振るわれそうになったので反射的に身を守っただけ。

 とはいえ、気絶させたのはやりすぎだったとは思っている。

 だから紅葉は言い訳せずに素直に謝った。


 ところが。


「すみませんじゃーねえーよ、タァーコ!」


 中村園長は拳骨で紅葉の頭を殴った。


「っ!」


 もめ事の理由すら聞かれずに気分次第で振るわれる暴力。

 こんなことはこの福祉所では日常茶飯事だ。

 紅葉もすでに慣れっこである。


 それに彼の細腕で殴られたところで対して痛くはない。

 だから紅葉はいつものように黙って耐えた。

 ……つもりだった。


「なんーだその目ーは、オイーッ」


 理不尽な懲罰に対する怒りが表情に出てしまったらしい。

 中村園長はさらに怒った顔つきになって紅葉の胸倉を掴み上げた。


「だぁーれがテメエーを食わせてやってると思ってーんだ、オイーッ!」


 醜悪な声で耳元で怒鳴られる。

 園の維持費が都から補償金が出ていることは知っている。

 この男は単なる都の職員であって、彼の善意で住ませてもらっているわけではないことも。


 もちろん、そんな反論はできない。

 園の中では何があろうと中村が絶対権力者だ。

 職員に食事抜きと命じれば紅葉は何も口にすることができなくなる。

 懲罰という名目で振るわれる日頃の暴力も中村の気が済むまで止める人間は誰もいない。


 職員も逆らえば即日解雇で職を失う。

 園の少年が庇えば今度は自分が的にされる。


 力で反抗すれば中村を懲らしめることはできるかもしれない。

 ただし、それはすなわち都に逆らうことであり、国に逆らうことである。

 中村が暴動を起こされた被害者を装えば特殊警察であるブシーズが派遣されるだろう。

 最悪の場合、それ以上に怖ろしい『ウォーリア』も。


「テメーエは前々から気にー入らなかったんーだ。どんーな理由で温情をもらったか知らーねーぇがー、外ーの人間が同じ空ー気を吸ってるーって思うだけでイライラするんーだよー!」


 中村は生粋の国粋主義者にして差別主義者である。

 紅武凰国以外の人間……彼らが『外』と呼ぶ日本人を同じ人間とは思っていない。


 外の出身である紅葉はこれまで何度もこの差別に晒されてきた。

 好きで紅武凰国にやってきたわけじゃない。

 あの日、これまでの生活が一変した日のことはよく覚えている。

 街灯も車も機械だってなかったけれど、穏やかに過ごしていた信州の日々のことを。


 でも、たった一つだけ思い出せないことがある。


「こんーなに反抗的なんじゃ、やっぱりもーう一度くらい『処置』してもらーうかぁ?」


 紅葉はビクリと身体を震わせた。

 その仕草が恐怖によるものだと思ったのか、中村は少しだけ声に喜色を浮かべる。


「今ー度は苗ー字だけじゃなく、外で暮らしてーた記憶そのものーを消してもらえよ。晴れーて紅武凰国の二等市民になれーるぞ。少なくとーもお前の中ではーな!」


 げはは、と醜い笑い声を発する中村。

 紅葉は下を向いて視線を逸らす。


 紅武凰国に連れてこられた時、紅葉は脳を弄られた。

 とはいえ別に強烈な洗脳を受けたわけではない。

 たった一つの記憶を消去されただけだ。


 それは自分の苗字。

 紅葉はかつて自分が何という家で過ごしていたのかを思い出せない。


 父の顔も、兄の顔も覚えている。

 自分の家が先祖代々忍びの術を受け継いでいたことも覚えている。

 ただ、その家名だけが思い出せない。


 この保護施設にいる少年少女はみな同じような経緯で外から連れてこられた者の集まりで、みな紅武凰国では中村の姓を名乗っている。


 はたして記憶を書き換えらた人間は以前まで自分と同じ存在だと言えるのだろうか?

 この国を支配している奴らはいざとなればいくらでも人間の脳を弄って記憶を書き換えられる。


 これは警告である。

 何もかも忘れて自分という存在を失いたくないのなら、この閉じられた箱庭で大人しく生きろと。


「ま、今回ーは許してやる。その代わーりテメエーは一週間ずっと便所掃除ーだ。いーいな」

「……はい」


 抵抗はできない。

 中村の怒りが治まったことを幸運に思いながら頭を下げると、脛を爪先で蹴り飛ばされた。


「つっ……」

「俺様ーは寛大だなーあ、げははーは」


 醜悪な笑い声を上げながら中村は背を向けて去って行く。

 この程度の暴力は痛いとも思わないが、好き放題に振る舞うこの男への怒りは確かに紅葉の中で大きくなっていった。

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