7 死角
「コタ!」
懐かしい声が聞こえる。
一寸先すら見えない闇の中、方向も定かではない遠くから。
今はもう決して誰からも呼ばれることのないあだ名で自分の名を叫ぶ声がする。
「コタ!」
もう一度。
その声を聞くと急に不安が押し寄せてきた。
今を逃したらもう二度と会うことができないような予感がする。
琥太郎はどこからか声の主を探そうとした。
しかし歩こうと思っても身体が重くて動けない。
「コタ!」
また声が聞こえた。
行かなくちゃ。
そう思うのに身体が動かない。
声も出せない。
いやだ、行かないでくれ。
俺はここにいる。
気付いて。
身体は動かない。
ちくしょう。
せめて、せめてもう一度会いたい。
あの時に言えなかった別れを言うだけでもいい。
ああ――
「スイ!」
喉の奥から絞り出した自分の声に驚いて目が覚める。
混乱する頭で琥太郎は顔の汗を拭った。
視界は暗い。
だが何も見えない暗闇ではない。
カーテンの向こうでは登りかけの太陽がうっすらと朝の訪れを告げている。
視界に映るのはベッドの縁、テレビ、女王の像。
「14929164! 早朝から大声を出すのは控えるよう推奨します!」
ああ、そうか。
夢だったんだ。
今の自分は三等国民。
自分の苗字すら忘れたウラワコミューンの若年工員。
飢えることも、職を失うことも、過剰労働もない代わりに、決してコミューンの外に出ることを許されない閉じられた楽園の民。
あいつには……二等国民時代の友人には、もう決して会うことができない。
そんな事は重々承知している。
自分の運命はもう何ヶ月も前に受け入れた。
けれど不意打ちのように夢に現れたあの声は、とても懐かしく感じた。
不覚にも胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感はしばらく拭えそうもない。
※
「14929164。具合が悪そうに見受けられます」
いつも通りに配給弁当をレンジに入れた直後、常にない優しい響きで女王の機械音声が呼びかけてきた。
「健康チェックを受けることを推奨します。結果によっては午前中の就労及び午後の学業の義務を免除して自宅で療養する許可が出ます」
琥太郎は驚いた。
常に監視されているのは知っていたが、こんなわずかな心の機微まで見ているのか。
しかも休んで良いだって?
これまで琥太郎は体調を崩した事がなかった。
なので女王人形がこのような気づかいをしてくれることも知らなかった。
ある意味で新鮮な驚きである。
「……いや、いいよ」
別に体調が悪いわけではない。
朝の夢をまだ引きずっているだけだ。
どうせ健康チェックをしても何の問題も出てこない。
なにより女王人形の前で裸になるのが嫌なので診断は断った。
女王はそれ以上何も言わなかった。
※
午前中の工場勤務を普通にこなしているうちに空虚な気分は消えていた。
やはり身体を動かすのは良い。
二日連続でノルマを大きく超えた琥太郎はまたPDAの女王からお褒めの言葉をいただいた。
昨日の反省を生かして今日はバスを待って通学する。
食堂でいつもの四人組で談笑している間に夢のことはすっかり忘れてしまった。
授業も無事に終わり、一日で最も楽しいクラブ活動の時間がやって来た。
最初のランニングではまた徹二と直太に続いて三番手で完走する。
試合は昨日に引き続き副キャプテンチームでピッチャーだ。
結果は0対2の完封勝利、朝の落ち込んだ気分が嘘みたいな絶好調だった。
その後は副キャプテンの直太とペアになって投球練習。
普段なら下校時刻後しかこんな時間は設けられないので、琥太郎は張り切って練習を続けた。
琥太郎の投げたボールが直太のグラブに吸いこまれて軽快な音を響かせる。
「おーし、ナイスピッチング!」
人の良さそうな笑顔で声をかけながらボールを投げ返す直太。
ところが手が滑ったのかボールは大きく弧を描いて琥太郎の後ろへと飛んでいく。
「悪い、琥太郎!」
「ドンマイっす」
気分の良かった琥太郎は先輩が暴投したボールを文句も言わず追いかけた。
かなり強く投げたようでグラウンドの端の茂みに入り込んでしまった。
草をかき分けてボールを見つけ出し、急いで戻ろうと立ち上がる。
振り返ると、すぐ後ろに直太がいた。
「あ、ボールあったっすよ」
「琥太郎」
探すのを手伝うつもりで来てくれたのだと思ったが、なにか雰囲気がおかしい。
琥太郎は直太が真剣な表情で立っているのを見て思わず息を呑んだ。
「どうしたんすか?」
「ちょっと話がある。お前は元二等国民だったよな」
まったく予想外の問いかけであった。
彼とそんな身の上話をしたことは一度もない。
わざわざ自分の嫌な過去を打ち明ける理由もなかった。
琥太郎は質問の意図が分からずに一瞬言葉が詰まる。
が、別に隠すことでもないので正直に答えた。
「はい」
「東京地区の方か」
「そうです」
「戻ってみたくないか?」
琥太郎はギョッとした。
もしこんな話をしていると女王にバレたら学業モードとはいえ叱責は免れない。
いや、叱責ならまだマシな方だ。
塀越えの密談など即刻取り締まり対象である。
「心配するな、ここは女王の死角だよ。何度も利用しているから間違いない」
さすがに運動クラブの活動中は腕時計型PDAを外す。
その代わりに校舎やグラウンドのネットにはいくつもの女王の肖像画が飾ってある。
監視の目は決して外されないはずだった。
死角があるなんてこと今の今まで知らなかった。
「な、何を言ってるんすか。そりゃ未練がないとは言わないけど、そんなの無理に決まってるじゃないっすか。俺たちは女王陛下の管理下なんすから」
意図的に作り笑いを浮かべながら琥太郎は答えた。
冗談であって欲しいと思ったからだ。
もしくは単なる愚痴か。
もしかしたら副キャプテンも元二等国民なのかもしれない。
己の内の不満を語り合って満足する、それで終わる話だと。
しかし直太の口から出た言葉は琥太郎の全く想像していなかったものだった。
「女王人形を出し抜く方法があるんだ。夜間は出歩く三等国民なんていないから肖像の監視もオフになる。部屋から出てしまえばあとはフリーパスだよ」
「な……」
出し抜く方法だって?
そんなものがあるなんて信じられない。
「もちろんこのウラワコミューンから逃げ出したいってわけじゃない。夜のうちに東京まで行って、雰囲気を楽しんだら朝には帰ってくる。翌日からは素知らぬ顔で普段通りの生活に戻れるだけの遊びだ。実を言うとな、俺と徹二は前にも何度か東京に行ってるんだ。どうだ、琥太郎も一晩の冒険に付き合ってみないか?」
「そ、それは……」
すぐに答えられるわけがない。
だってそれは間違いなく犯罪である。
しかし本当に、それが可能なら?
東京へ、あの街へもう一度戻れるなら。
琥太郎は心臓の鼓動が高鳴るのを自覚した。
「次の決行は三日後の夜を予定している。他にも何人かに声をかけてあるから、気が向いたら来てみろよ。女王の出し抜き方は教えておくけど乱用はしないでくれ。修正を食らったら俺たちは残された唯一の自由を失ってしまうんだからな」
唯一の自由、と直太は行った。
やはり内心でそう思っているのは自分だけではなかった。
この偽りの楽園への息苦しさ、大人たちのように割り切れれない若さ故の渇望を。
「……考えさせてください」
琥太郎はとりあえずそう返すで精一杯だった。
直太はいつも通りの優しげな笑みを浮かべ、試合中のミスを慰める時のように軽く肩を叩いた。
「急にごめんな。慌てることはないから、じっくり考えてくれ。間違ってもここ以外でこの話には触れないようにな」
その後の練習はまったく身が入らず、琥太郎は珍しく五時のクラブ活動終了と同時に練習を切り上げて自宅に帰ることにした。
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