第三話 戦地
1 塹壕
大地を割るようにジグザグに削り取られた幅二メートルほどの溝。
敵の攻撃から身を守るための塹壕の底に無数の兵士が息を潜めていた。
屈曲型望遠鏡で敵陣方面の監視をしている者。
カンテラの明かりを頼りに機関銃の整備をしている者。
少しでも体力を回復させようと仮眠を取っている者など様々である。
そしてどの兵士の顔にも疲労の色が濃く浮かんでいた。
「敵はまだ動かないか」
「ああ、さっぱりだ。サル共は俺たちに怖じ気づいたんじゃねえのかね」
「違えねえ。ははは」
敵国人に対する蔑称を口に笑い合う土色迷彩服を纏ったスラブ系の兵士たち。
しかし、彼らのその笑いもどこか乾いたものだった。
長く続く戦闘に誰もが倦んでいるのだ。
「お前ら気を抜くな。敵はいつ攻めてくるかわからないんだぞ」
この隊で最も階級の高い兵士が全体の気を引き締める。
兵士たちは無駄口をやめて各々の作業に戻った。
とはいえ、無為に過ぎる時間は次第に集中力を奪う。
しばらくして一人の兵士が呟くように誰にともなく問いかけた。
「でもよ、いつ終わるのかな。この戦争……」
「決まってんだろ。敵をすべて死体に変えた時さ」
答えた兵士も本気で言っているわけではない。
一体どれくらい前から戦い続けているのか、なぜ戦っているのすら誰もわからない。
わかるのはこの目的もわからない戦闘はまだしばらく続くこと。
運が良ければ交代期に入って国に戻ることができる。
そしてしばらく平和な時を過ごせるはずだ。
数年後には戦場に送られる運命を背負いながら。
もし、運が悪ければ――
「来るぞっ!」
見張りの兵士が大声で敵襲を知らせる。
同時にどこかで激しい爆発音が響いた。
地面が震える。
塹壕のどこかに手榴弾が投げ入れられたのか。
もしかしたら何人かの仲間が犠牲になったかもしれない。
「機銃、撃てえっ!」
仮眠を取っていた兵士も叩き起こされ全員で陣地防御態勢を取る。
機関銃の射手は敵が潜んでいると思われる方向に弾丸の雨を浴びせた。
別の兵士は塹壕から少しだけ頭を出して手持ちのライフルを撃ちまくる。
敵の姿なんてまったく見えない。
数十メートル先の鉄条網に引っかかってると信じてひたすら弾をばらまくだけだ。
耳を聾するような轟音の中、監視兵の指示に従って兵士たちは死にものぐるいで銃を撃ち続けた。
「撃ち方、やめ!」
上官の合図でピタリと銃撃の音が止む。
急に訪れた静寂の中で耳鳴りの音だけが響いていた。
壕の中は立ちこめた硝煙で視界すべてが灰色に染まっている。
「追い払ったのか……?」
その呟きに答える者はいなかったが、どうやら一段落ついたらしい。
安堵の後の弛緩した空気が塹壕の中に流れた。
「随分と小規模な突撃だったな。偵察だったのか?」
「見つかったら大人しく逃げりゃいいものを。日本人か清国人か知らねえけど、夜間に少数で突っ込んで来るなんて東亜連合の奴らは命知らずにも程があるぜ……っと」
待避壕から出てきた衛生兵が慌ただしく彼らの後ろを駆けていった。
そう言えばどこかで手榴弾の投擲を受けたのだった。
着弾地点にいた者は無事ではあるまい。
ほんの少しの幸運で自分たちが助かったという事実を噛みしめて兵士たちはまた口を噤んだ。
一瞬の静寂の後、どこからか悲鳴が聞こえた。
「なんだ?」
壕の屈曲点の向こうで銃撃の音が聞こえる。
もしや銃撃をかいくぐって突撃を成功させた敵兵がいるのだろうか?
もしそうならたいしたものだが、少数での突撃なんて多少の被害は出てもすぐ駆逐されるだろう。
二人の兵士が戦闘音のする方へ銃を向ける。
見張り兵は敵陣の方に注意を払った。
敵影は見えない。
浸透戦術でもなさそうだ。
本当に破れかぶれの特攻だったのか。
自陣に敵が侵入しているという状況は気が休まらないが、勝手に持ち場を離れる訳にもいかない。
周りの兵士たちは仲間を信じつつも戦闘態勢を維持していたが、やがて銃撃の音が途絶えた。
「かなり手こずったみたいだな」
「突っ込んできたのは日本人だな。カミカゼアタックってやつだ」
「いや、清国人かも知れないぞ。奴らは前線の兵に銃を突きつける部隊があるって聞くからな」
緊張が解けて冗談を言い合う二人の兵士。
その間に一陣の風が吹いた。
「……あ?」
兵士は目の前で喋っていた戦友の顔がいきなり消えたことに首をかしげた。
「こんばんわ、勇敢なるロシア兵の諸君。死ね」
下手な発音のロシア語が背後から聞こえる。
そこには見慣れない人間が立っていた。
ムラのある赤毛に真っ赤なシャツとジーンズ。
戦場には似つかわしくないラフな格好の人間である。
精悍な顔つきだが、声や胸部の膨らみから女だとわかる。
彼女の手には見知った戦友の生首が握られていた。
「う、うわあああっ!」
変わり果てた仲間の姿を見た兵士は叫び声をあげた。
赤い女は掴んでいた頭部を放り投げる。
人間とは思えない俊敏な動きで距離を詰める。
「よっ!」
女は手刀で兵士の腹を打ち付けた。
攻撃を食らった兵士は内臓が口から飛び出したような錯覚を味わう。
その直後、戦鎚を振り回すがごとき回し蹴りを食らって側頭部を陥没させて息絶えた。
「ぎゃあああ! ぎゃああああああ!」
別の兵士が恐慌をきたしてライフルを乱射する。
狙いをつける余裕もないが、狭い塹壕の中でばら撒かれた弾丸のいくつかは赤い女に当たった。
だが倒れない。
顔に笑みを浮かべたまま、女は悠然と銃撃を続ける兵士に近寄っていく。
「ほっ!」
「ぎゃぐびっ」
振りかぶった拳を思いっきり突き出す。
兵士の上半身は血肉の塊となって吹き飛んだ。
まるで至近距離で榴弾を食らったような惨状である。
残った兵士たちは完全にパニックになった。
算を乱して逃げ始める者すらいる。
「おいおい、せっかく褒めてやった傍から逃げんなよ!」
赤い女はとてつもない速さで逃げた兵士たちを追いかける。
それはあたかも一瞬で最高速度に達することのできる列車のようだ。
壕の角を曲がった先には現在の状況を理解していない多くの兵士たちがいた。
「た、助けてくれっ! 死神だあ!」
「面倒だから一気に決めるぜ!」
赤い女の腕が赤く輝く。
銃弾を受けても彼女は全く傷つかない。
ただ一方的な攻撃で哀れな兵士たちを蹂躙していく。
「うぉらあっ!」
ボールを投げるようなフォーム。
女の腕から炎が巻き上がった。
それは炎の暴風。
あっという間に熱風は壕を埋め尽す。
そして視界に移るすべてを焼き尽くしていった。
炎は巨大な蛇のようにうねりながら曲がり角の先へと進む。
実に一〇〇メートル以上も先まで届き、範囲内のすべてを飲み込んだ。
休眠中の兵士は夢の中でオーブンに焼かれ、そのまま眠りから覚めることなく灰となる。
あまりにも理不尽な死。
自然災害のように降って湧いたどうしようもない惨劇。
兵士たちの絶叫の連鎖が夜の戦場にいつまでも響き続けていた。
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