8 相伝
それから六日後。
紅葉が単独四回目になる町行きの前日に陸玄は帰ってきた。
畑仕事を終えて帰路についていた紅葉が最初に発見したが、最初それが兄とはわからなかった。
髪はボサボサ、顔は薄黒く汚れ、身につけるのは右肩から腰回りを隠す程度のぼろ切れ同然の布。
まるで路上で物乞いをして暮らす老人のような姿だった。
「兄さ――」
思わず鍬を投げ捨てて駆け寄った。
しかし紅葉は変わり果てた姿の兄の前で足を止め絶句する。
陸玄は笑っていた。
その表情を見て嫌な予感が脳裏を駆け巡る。
もしや兄は言語を絶する酷い目に遭って狂ってしまったのでは?
その悪い考えが間違っていたことはすぐにわかった。
「ただいま、紅葉」
そう言って紅葉の頭を撫でる兄の声は常日頃とまったく変わらない優しい響きがあった。
「長く留守にしちゃってごめんな。元気だった?」
「あ、兄上こそ、急にいなくなって心配しました。これまでどうしていたんですか」
「ちょっと父上の言いつけで山に籠もって修行をね」
変わっていない。
姿こそみすぼらしいが、いつもの優しい兄に違いなかった。
実を言えば紅葉は父の言葉を疑い始めていた。
何らかの事情で兄はもう二度と帰ってこないんじゃないかと。
このままもう会えなくなるのではないかと、毎日不安を抱えたまま過ごしていた。
例えばブシーズへ刃物を投げつけたことがバレて捕らえられてしまったとか。
町で紅武凰国の棄民を見てからは特に、そんな心配が頭から離れなくなっていた。
だけど兄はこうして帰ってきてくれた。
それだけで紅葉の心は長い夜が明けたように晴れやかな気分になる。
「風呂を沸かしましょう。ゆっくりと修行の疲れをとって下さい。新しい服も用意しなくては」
「ううん、先に父上に会いに行かなきゃ」
そう言って陸玄は紅葉の横を通り過ぎて敷地奥の小道場へと向かった。
道場と言っても町にあるような立派なものではない。
広さ八畳、格子すらない粗末な小屋である。
普段の修行は屋外で行うので主な用途は透輝が精神統一のために籠るくらい。
あるいはどうしても他人に覗かれたくない秘伝の技を見せる時だ。
陸玄が戸を開く。
中は明かりが灯っていない真っ暗闇だった。
兄は迷いなくここに向かって来たが、父はいないだろうと紅葉は思った。
直後、暗がりの中から何かが飛んできた。
それは抜き身の刀。
しかも模造刀ではなく真剣である。
そうと気づいたのは陸玄が峰側を掴んだ刀身に夕焼けの光が反射したからだ。
もし自分なら受け取ることもできず刃に貫かれていただろう。
「ただいま戻りました、父上」
兄は少しも動じていない。
彼には暗闇の中にいる父が見えているようだ。
「これより相伝の儀を始める。覚悟は良いな」
「はい」
「紅葉。外に出ておれ」
「は、はい」
よくわからないが父に命じられては従うしかない。
不安な表情で見上げると、陸玄は優しげな表情を浮かべて紅葉の頭を撫でた。
外に出て戸を閉める。
特に何か言われたわけではなかったが、紅葉はその場を離れずに小屋の前で待った。
相伝の儀と父は言った。
それは秋山の家督を陸玄に譲るということか。
あり得ないことだと紅葉は思った。
確かに兄は類い希な才能の持ち主である。
しかし、まだ十三になったばかりだ。
父も身体の衰えが現れるような年齢ではない。
一刻、二刻と時間が過ぎる。
すでに日は沈んで久しい。
今夜は月明かりもない。
この小屋はE3ハザード前の技術で作られており、防音設備が整っていて中の音は外に漏れない。
虫の声だけが響く寂しい空気の中で紅葉は不安に耐えながらただじっと待った。
最近の気温からは考えられないほどに風の冷たい夜だった。
やがて、おもむろに戸が開かれる。
「父上」
小屋から出てきたのは透輝であった。
どうなったのか聞こうと小走りに駆け寄る。
と、父が肩に怪我を負っていることがわかった。
「そ、その怪我は?」
「たいしたことはない。それより陸玄を頼む」
有無を言わせぬ口調でそう言うと、父は服に染みる血もそのままに母屋の方へと歩いて行った。
その後ろ姿を見送った後で紅葉はハッとして小屋の中に駆け込んだ。
中は完全な暗闇だった。
何もない小さな空間の中、怖いものはないとわかっても本能的な恐怖がわき起こってくる。
紅葉は控えめに兄を呼んだ。
「兄上、いますか」
「紅葉……?」
声の聞こえた方に向かって歩く。
と、何かに躓いた。
「痛いよう」
どうやら寝転がっていた兄を蹴ってしまったらしい。
「す、すみません」
「大丈夫。それより」
「はい」
紅葉はしゃがみ込んで手探りで指先を伸ばす。
その手が兄の肌に触れた。
「喉渇いた。水……いや、屋敷に連れて行ってくれないか」
「わかりました」
「その辺に刀が転がっているから気をつけて」
まずは手で触れて兄がどんな姿で寝ているのかを確かめる。
仰向けに寝ているようなので、肩を掴んで上体を起こして自分の背に被せるようにする。
「掴めますか」
「うん、ごめんね。迷惑かけて」
「迷惑なんて」
背負った陸玄の身体は細く、折れてしまいそうに痩せていた。
申し訳程度に纏っていたぼろ布はさらに破れて腰回りを隠すのみ。
背中に素肌の温もりを感じながら、紅葉は何とか兄を外へ連れ出した。
「相伝の儀は」
どうなったのですか、と聞こうとした紅葉は兄が寝息を立ている事に気付いた。
よほど疲れていたのだろう。
結果がどうなったにせよ、今は生きて戻ってくれたことに感謝したい。
とにかく今夜はゆっくり休んでもらって、明日になったら身体を清めてあげよう。
そんな事を考えながら紅葉は知らずのうちに微笑んでいる自分に気付いた。
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