9 道中
相伝の儀は滞りなく完了したらしい。
あの夜の小屋の中で兄と父がどのようなやり取りを行ったのかは知るよしもない。
それは家を継ぐ者だけが知ることを許された秘伝の儀式なのだ。
とにかく秋山の家はその日を境に陸玄が継ぐことになった。
おそらく家の歴史で最も若い当主の誕生である。
翌日、湯浴みを終えて袴姿になった陸玄はいつも通りの飄々とした兄に戻っていた。
当主を継いだ気負いのようなものも見られない。
何も変わらない優しい兄のままであることに紅葉は安心した。
「町道場へ行く」
午後になって透輝が言い、三人で町へと向かった。
道場の門下生たちへ代替わりを伝えに行くのだそうだ。
透輝が町の道場へ行くことは滅多にない。
以前はよく三人で稽古に行っていたが、このところは二月に一度くらい顔を出す程度だ。
年貢を納めるための畑仕事もそうそう休めないし、子どもたちだけで行かせることで陸玄や紅葉の修行になるという名目もあった。
家族そろっての町行きは本当に久しぶりである。
道場に入ると門下生たちは透輝の姿を見て一瞬だけ凍り付いた後、揃って大声で挨拶をした。
「おはようございます、師範!」
師範の厳しさは身に染みている。
陸玄の人気の理由は父とのギャップもあるだろう。
礼儀のなっていない者に対する透輝の厳しさは誰もが良く知っている。
ところが、その鬼の師範がふんわりとした微笑みを浮かべたので、子どもたちは呆気にとられた。
「俺はもう師範ではない」
「それはどういうことですか」
門下生たちを代表して師範代が尋ねる。
全員を集めたうえで透輝は説明をした。
「秋山の家督は陸玄に譲った」
それを聞いた途端、門下生たちの間で大歓声が上がる。
「本当ですか陸玄さん!」
「おめでとうございます!」
細かい事情はさておき、みな手放しで陸玄の代替わりを喜んでくれた。
紅葉も自分のことのように誇らしい気分である。
しかし師範代は難しい顔をしていた。
「師範、それは」
「向こうで」
透輝と師範代は別室へと移動して行ったが、誰も気に留める者はいなかった。
去っていく大人二人を横目に周囲を取り囲まれた陸玄はパンパンと手を鳴らす。
「さあさあ、それより稽古の続きだよ。ぼくも道場へ来るのは久しぶりだし、いつも以上に厳しく教えるからね!」
「はい、わかりました!」
「紅葉もだよ。今日ばかりは蔵に籠もるのは禁止。一緒に訓練に付き合うこと」
「はい」
その後はいつも通りの稽古になった。
言葉とは裏腹に陸玄は相変わらず優しく丁寧な指導をしている。
兄は代を継いだ後も変わらない。
紅葉も門下生たちに混じっていつもより楽しく竹刀を振った。
本で知識を得るのも良いが、こうして兄と一緒に年少者の指導をするのも悪くない。
しばらく離れて暮らしてみて陸玄の偉大さがより身に染みた紅葉であった。
半刻ほどして透輝と師範代が道場に戻ってきた。
「今日の稽古はここまで」
師範代が手を叩く。
格子から外を見ても日はまだ高い。
楽しく稽古をしていた門下生たちは不服そうだったが、透輝の前で文句を言う者はいなかった。
「陸玄、紅葉」
「はい」
父は兄弟を呼び唐突なことを言った。
「これから松本へ向かう」
「松本?」
近隣では最も大きな町である。
ここのような小さな街道町と違い、多くの人が住む立派な城下町だ。
紅葉はもちろん一度も行ったことなどない。
「古い知り合いと会う。陸玄に家督を継いだことを報告しに行きたい」
「わかりました」
笑顔で首を縦に振る陸玄。
隣の紅葉はいつものように無表情だが、内心では大いに喜んでいた。
理由はどうあれ行ったことのない町へ行けるのは楽しみである。
※
そして三人は松本へ向かった。
もちろん移動手段は徒歩しかない。
町をいつもと逆方向の街道から出るのは紅葉にとって初めの経験だった。
遙か先まで道が続いている。
ふと左側を眺めれば山脈の間から紅武凰国の巨塔が見えた。
ここ信州は山がちの地形であり、わずかな盆地にいくつもの町がある。
しばらく進むと大きな国道と合流した。
進路を西から北に変更してさらに歩く。
この辺りに来ると人工物が極端に多くなる。
ただし、そのほとんどが廃墟である。
E3ハザードという大災厄は地球全体に未曾有の犠牲者を出した。
ただしSHINEという代替エネルギーのある日本の首都圏だけは例外的にほとんど被害がなかった。
その後、首都圏は紅武凰国として独立して各地方から多くの日本人を受け入れたが、その大半は半強制的に大陸への移住を強要されたと聞く。
電気のなくなった地方に留まった者はエネルギー不足による食糧不足で多くが飢え死にした。
人口が程よく減少し、生き残った者たちが二世紀前の生活に慣れるようになるまでは……
戦争はなく、暴動もなく、ただ人だけが消えた町。
十三年の月日はかつての繁栄の跡を消し去るかのように建物を朽ちさせていく。
そんな寂寥感を覚える景色を眺めながら歩いていると、紅葉の心は次第に滅入っていった。
ふと、人影があった。
農具を片手に歩いている人の姿が見られる。
廃墟とは言え雨風をしのぐための住処とている人間もいるようである。
こんな世界でも意外と人は逞しく生きていけるものなのかもしれない。
途中、三人は蒸気自動車に追い抜かれた。
このご時世に車を所持しているのは中央の代官か、はたまた郡の役人か。
車の往来があるおかげでこの辺りの道路はしっかりと整備がされて歩きやすかった。
左手に大きな湖が現れ、それを見た紅葉は思わず呟いた。
「あれは、海……?」
「ばかだな。あれは諏訪湖だよ」
即座に陸玄に突っ込まれる。
よく考えればわかることだが信州に海はない。
しかしこんな広大な湖を見るのは産まれて初めてなのである。
理解を超えた感動に紅葉は思わず胸が熱くなった。
日が暮れてきたので近くの空きビルに入って一泊する。
まだ朽ちていないE3ハザード前のコンクリート作りの建物だ。
三階まで上がれば植物による浸食もそれほど酷くない。
三人は携帯食料を口にして早々と眠りについた。
翌日は日の出前から歩き始める。
湖をぐるりと回り込み、街道沿いにひたすら進む。
日が昇りきった頃に立体的な道路が頭上を横切っているのを発見した。
車道の反対側へと渡るだけの歩道橋ではない。
巨大な橋がどこまでも続く立派な道だった。
高速道路という昔の自動車用道路らしい。
「これを伝っていけば険しい峠を越える必要なく山を越えられる」
小さな道路から高速道路に乗った。
真っ暗な人工の洞窟を抜ける。
山を削ったような谷間の道を進む。
途中で鹿の集団が道路を縦断している姿も見かけた。
やがて高速道路から降りて別の街道へ。
この辺りに来るとまた廃墟が目に突くようになった。
昨日の諏訪湖近辺よりもうち捨てられた建物を住処にしている人が多い。
しばらく進むと急に人通りが増え始める。
活気に溢れた人々の暮らしがそこにはあった。
道路は綺麗に整備され、建物も改修され住み良くまとまっている。
ここが松本城下町である。
E3ハザード後の混乱で死んだ日本人の数はおよそ四千万人。
紅武凰国が切り離された分を除いた約半数ほどである。
全世界で九〇億人あまりいた人口が五億人にまで減ったことを考えれば日本はマシな方ではあるが、生き残った人間の数割が移民となって大陸に進出した事もあり、国内にはE3ハザード前の三分の一以下の人口しかいない。
自然と地方は寂れて地域の拠点に人は集中する。
ここ松本は信州中南部にかけての最大の人口密集地帯であった。
「父上。ご友人とはどこで落ち合うことになっているのですか」
陸玄が父に尋ねた。
周囲に人通りは多い。
また、点在する廃墟を含めれば見渡す限りの町並みが続いている。
事前の取り決めなく人を探すのは大変だろう。
長距離間の連絡を取り合う道具など一般人の手にはない時代ある。
「心配ない。適当に歩いていれば向こうから見つけてくれる」
「それはどういう――」
陸玄が再度尋ねようとした瞬間、紅葉は背後に気配を感じた。
三人は同時に振り返る。
そこには一組の親子が立っていた。
「なんだなんだ。驚かそうとしたのに、からかい甲斐がない一家だ」
「久しぶりだな、宗」
おどけたようなセリフの中年男性の姿を見た父が相好を崩す。
それは紅葉が見たこともないような穏やかな表情であった。
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