8 仇との再会
紅葉は関戸駅前の雑沓に何食わぬ顔で紛れていた。
古着屋の店先からシャツとジーンズを失敬して着替えた。
同じく盗んだ伊達眼鏡を装着しショルダーバッグを肩にかけた。
変装という程ではないが、自然に振る舞っていれば人の目などわりと誤魔化せるものだ。
犯罪者が逃げも隠れもせず現場近くに残っていると思う人間はあまりいない。
先ほど見回り中のブシーズの横をすれ違ったが、ちらりと一瞥をくれただけで声もかけられなかった。
もちろん職務質問を受けたとしても怪しまれず誤魔化す設定は用意してある。
ブシーズは紅武凰国の特殊警察であるが一般の二等国民からはただの警察と思われている。
内地勤務の隊員はかつて紅葉が外で出会った隊員よりもさらに鈍い。
隙あらば一撃で仕留めることも可能だろう。
念のためショルダーバッグの中にはナイフを数本入れてあるが、できれば使わないで済ませたい。
変装と擬態は忍の潜入工作の初歩である。
まさか実際に役立てる時が来るとは思わなかったが。
今は名を思い出せぬ我が一族。
しかし教わった術は決して忘れない。
紅葉は近くのカフェに入って窓際の席に座り、紅茶を注文して盗んだ雑誌をひろげて読書するフリをしながら今後のこと考えていた。
目的は東京から脱出すること。
そのためにはとにかく夜を待つのが第一だ。
あと二時間もすれば日が沈む。
東京は東側を除いて三方を高い壁に囲まれている。
警備の目を盗んで脱出するとしたら夜しかないだろう。
暗くなったら急いで外周部を目指す。
場合によっては電車を使って一気に移動することも考えている。
時間が経てばブシーズも捜索に本腰を入れるだろうから、状況を見て臨機応変に行動したい。
東京から出たとしても、周りはさらに幾つもの壁で区切られた三等国民の土地である。
監視の厳しさは仮初めとはいえ自由の与えられた東京とは比べものにならないと聞いている。
紅葉は三等国民の住む街の情報をほとんど知らない。
外に出たら素早く状況に適応する柔軟さも求められる。
先は長く、困難な道である。
だがやってやれないとは思わない。
だってあの人はそれができたんだから。
自分を見捨てて逃げたあの人は……
そういえば、あの人のことを思い出すのはずいぶん久しぶりだった。
バイト先で会話に出ていなければ、山羽翠とか言う奴に出会っていなければ。
さっきの中村の露骨な挑発にも過剰に反応してしまうことはなかったかもしれない。
今さら悔やむことではない。
どうせこうなるか飼い殺されるかの二択だったんだ。
ならば諦観に縛られていた心を解放するきっかけになったのだと喜んでおこう。
紅茶を飲み干し、カップをテーブルに置く。
そこで紅葉は妙な感覚に気付いた。
いつの間にかカフェの中には紅葉以外の客がいない。
日も暮れてきたので客足が減るのはおかしくないが、店員の姿すらないのはどういうわけだ。
いや、カフェの中だけではない。
窓から見える外の景色にも人っ子一人見られない。
本来なら人で溢れているはずの帰宅時間に差しかかっているのに。
「なあ、一つ聞いて良いか?」
低い女の声。
それは紅葉のすぐ背後から聞こえた。
人を小馬鹿にするような、呆れているような声だった。
「いつまでも犯行現場の近くに留まって優雅にティータイムとか、テメエは馬鹿なのか?」
紅葉はショルダーバッグからナイフを取り出して振り向きざまに投擲した。
手を伸ばせば触れる距離で放ったそれは女の眼前で彼女の指に挟まれて止められた。
エナメル質の露出度が高い黒い服。
端正だが凶悪に歪んだ面構え。
腰まで届く長い黒髪。
それは忘れもしない、父の仇のウォーリアだった。
「貴様……!」
「あー、やっぱりテメエかよ田舎忍者」
ウォーリアアキナはテーブルを蹴り上げた。
紅葉は椅子から飛び退いて両手にナイフを握る。
「何食わぬ顔でうまく人混みに紛れたつもりだったか? テメエの万引き行為も暢気なお着替え姿も、ぜーんぶ監視カメラにバッチリ映ってんだよ」
「なに……?」
駅前に監視カメラが多く設置されているのは知っている。
その位置はしっかりと把握して死角に入っていたはずだ。
「うけけっ。目立つダミーにあっさり引っかかってんじゃねえよ馬鹿が。やっぱりテメエは三流だ。ウォーリア候補に推薦しなくて正解だったぜ」
アキナはおかしそうに笑った後、途端にその形相に怒りを滲ませる。
気圧されそうな強烈な殺気が紅葉の体を貫いた。
「そのクセくだらねえ所だけいっちょ前に兄貴のマネしやがって。テメエら兄弟は俺様にどれだけ恥をかかせりゃ気が済むんだ。あ?」
「くっ!」
紅葉は窓ガラスを割って店の外に飛び出した。
転がり起きると後方に道路向こうの建物目指して全力で走る。
ところが、彼の行く手は突然目の前に現れた灰色の高い壁に阻まれた。
「逃がさねえよ。知ってんだろ俺様の固有能力はよ」
異空間形成。
狙った獲物を決して逃がさないアキナの能力だ。
古くはJOYと呼ばれていた、ウォーリアが持つ個別の超能力である。
この空間に囚われたら逃亡は不可能。
今の紅葉ができることは二つに一つしかない。
罪を認めて深く謝罪し許しを請うか。
勝ち目がないとわかっても戦って華々しく散るか。
覚悟を決めるしかなかった。
両手に握ったナイフを強く握り締める。
もうこんなやつらの思い通りにはなりたくない。
「お、やる気か? うけけっ、そうこなくちゃなあ。施設職員を暴行した上に凶器を持って捜査官に抵抗。こりゃ殺しちまっても正当防衛ってもんだあな!」
アキナの目は完全に獲物を狩る肉食獣の目になっていた。
だが紅葉は黙ってやられるだけのか弱い兎ではない。
せめて一太刀、忍の誇りを見せつけてやる。
震える身体を奮い立たせ紅葉は強く敵を睨み付けた。
ところが次の瞬間には目の前にアキナが迫っていた。
「っ!?」
「遅えっ!」
腹部にアキナの拳がめり込む。
防御をすることも後ろに飛んで威力を抑える余裕もなかった。
紅葉は為す術もなく五メートル以上も吹き飛ばされて背中を灰色の壁に強く打ち付ける。
「がっ、がはっ……」
肺の中の空気がすべて漏れる。
凄まじい激痛に耐えきれず蹲る。
「がっ!?」
呼吸を整える余裕もなく背中に次の衝撃が降って来た。
アキナの足が振り下ろされ、そのままぐりぐりと踏みつけられる。
「どうした? もう終わりかよ」
「ぐ、ぐっ」
まるで鉄の塊で固定されたように体が動かない。
ウォーリアは細身の見た目からは信じられないほどの力がある。
紅葉は痛みを堪えて背中越しにアキナを睨み上げると素早く左手で最後のナイフを取り出した。
「ふん」
アキナは攻撃を避けようともしない。
彼女は鼻を鳴らして紅葉の抵抗を見下している。
素肌をむき出しにしている足首を斬りつけたが、わずかな傷すら付けられない。
紅葉の精一杯の反撃は全く通じなかった。
「やっぱりその程度だぁな。ちょっとばかし身体能力が高いSHIP能力者ごときが、俺様からみりゃ普通の人間とたいして変わりねえんだよ……なっ!」
「ぐあああああっ!」
背中を踏みつけるアキナの足に力がこもる。
押さえつけているなんてものじゃない。
このまま背骨を踏み折られそうだ。
たまらず叫び声を上げるとアキナは愉悦の笑いを漏らす。
「うけけっ。痛いか? 苦しいか? ほら、もっと抵抗してみろよ? 死んじまうぞ?」
抵抗しようにも圧倒的な力の差は決して覆せない。
素肌に刃を突き立てても傷ひとつ与えられない。
両者の間には技や心の入り込む余地すらない。
悔しかった。
仇を討つどころか一矢報いる事もできない。
こんな奴を愉しませるためだけに苦しめられて殺されるなんて。
紅葉の命は……
いや、この世界のすべては紅武凰国の支配者たちの掌の上にある。
本当の自由などはどこにもなく、奴らの気まぐれ一つで摘み取られる哀れな雑草に過ぎない。
ならば、ここで朽ち果てたとしても何も変わりはしない。
紅葉の心を再び諦観の念が蝕み、やがてそんなことを考える余裕もなくなる。
激痛にすべての思考が遮られる。
その時だった。
「うおーっ!?」
背中を押さえつけていた重みが消えた。
振り向いた紅葉の視界を翠色の光が埋め尽くしている。
光の出所は灰色の壁。
その一部に亀裂が生じている。
剥がれ落ちた壁には人が通れるほどの大きさの空洞が空いている。
その向こうから一人の少女と一匹の猫が姿を現した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。