3
「って来まーす」
薄っぺらいカバンを肩に担いで翠は通学靴を履く。
母親はすでにパートに行っているようだ。
玄関に鍵をかけて家を出る。
翠の家は都心から少し離れた住宅街にあった。
家の前は車一台がギリギリ通れるような狭い路地である。
その代わり頭上に高速道路の蓋はなく、空を見上げれば青空と白い雲が見える。
「お?」
家を出てすぐの道端で茶色い毛並みの猫を見かけた。
なんとなく足を止め腰を屈めて手招きする。
「ほら、おいでおいで。エサはねーけど……」
しかし猫はこちらに一瞥をくれるとそっぽを向いて塀の上へ駆け上り、あっという間にどこかへ行ってしまう。
「ちぇ、つまんねーやつ……あたっ!」
立ち上がろうとした翠は腰の辺りに走った痛みに思わず唸って膝をついてしまった。
昨日のバイトでの休憩時間の後、翠は紅葉の態度への鬱憤を晴らすように思いっきり駆け回った。
無理な体勢で重い物を押した結果、どうやら腰を痛めてしまったらしい。
普通に立っている分には問題ないが腰を曲げるとものすごく痛い。
湿布を張って寝てもひと晩では治らなかったようだ。
「あーちくしょ。ダセーなあ……ん?」
ふと、翠は道端に何かが落ちているのに気付いた。
「なんだこりゃ?」
さっきの猫がいたあたりに金色の腕輪が落ちていた。
しゃがみ込んで拾い上げる。
シンプルな作りの太いリング。
緑色の宝石がはめ込まれている。
「本物の宝石……じゃないよな?」
こんな所に宝石を捨てる馬鹿はいないだろう。
しかし、誰かの落とし物という可能性も考えられる。
翠には真贋を見極める目はないが、こんな所に放置しておけば誰かが拾ってしまうかも知れない。
「へへっ」
もし本物の宝石なら売っ払ってバイクを買う資金の足しにできるかもしれない。
そんなよこしまなことを考えながら翠は左右を見渡した。
誰もいないことを確認すると急いで腕輪をカバンにしまう。
そして素早くこの場から離れようと立ち上がって……
「て、痛ええええっ!」
再び腰の激痛に苛まれた。
「くっそ、自分のマヌケさを呪いたいぜ……」
翠は痛みを堪えながらゆっくりと歩き始めた。
こんな時こそバイクがあれば楽だろうなあ……
と、まだ見ぬ自分の愛車により一層の憧れを募らせる。
路地を抜けて大通りに出る。
ひっきりなしに車が通る四車線の国道。
頭上では高速道路の蓋と高層ビルの壁が空を隠していた。
※
なんとか学校に辿り着いた翠は駐輪場で何かもめ事が起こっている事に気づいた。
「コラ、どういうつもりだァ、二年坊……」
三年の先輩が誰かに絡んでいる。
今どき珍しい絵に描いたような金髪リーゼント。
ガタイが良くてケンカっ早いことで有名な六条先輩である。
隣にはいつもの取り巻き二人組もいる。
中学で成績不振だと高校進学の道が断たれて都外に送られることになる。
そのため不良はあまり存在しないが、どの学校にも最初から進学を諦めている人間はいた。
この六条先輩と取り巻きもその類いの人種である。
中学ではよほど法に触れる重犯罪をしない限りは退学にならない。
それを良い事に好き放題やっている先輩には先生たちも手を焼いているそうだ。
「何か?」
「何かじゃねえよクソガキィ。中坊のクセにバイク通学なんかしてんじゃねえぞァ!」
絡まれているのは六条先輩と比べると頭二つ分ほど背が低い生徒だ。
最初は女子かと思ったが、よく見ると男子の制服を着ている中性的なイケメンである。
昨日の紅葉とか言う奴だった。
「あらら、気の毒に……」
紅葉は許可をもらっていると言っていたが、六条先輩にそんな理屈は通用しない。
すでに都落ちが決まっている先輩は卒業まで好き放題に振る舞うつもりだ。
たぶん、誰かに絡む理由はなんでも良かったに違いない。
ご愁傷様。
翠は最悪な奴に目をつけられた紅葉を哀れんだ。
ああなったらいくら謝ったところで先輩の気が済むまで終わらない。
最悪、先生が来る前に二、三発くらいは殴られるかもしれない。
助けてやりたいが相手が悪すぎる。
せめてスクーターは壊されないよう祈ってやろう。
まあ、必死になって謝罪すれば少しくらいの手心は加えてくれるかもな。
ところが、この学校の生徒なら誰もがやるはずのその行為を紅葉はしなかった。
「バイク通学の許可は学校からもらっています。失礼ですが、そこをどいてもらえませんか」
周囲の空気が一気にざわつく。
六条先輩と紅葉のやりとりを遠巻きに見ていた周りの生徒たちにも緊張が走った。
「なんだとァ?」
六条先輩の顔つきが変わる。
翠のいる位置からも見える彼の横顔は一瞬にして鬼の形相に変わっていた。
隣にいる取り巻き二人までもが恐れて距離を取る。
邪魔扱いされたことで一気に沸点に達したようだ。
怒れる六条先輩の姿に誰もが数秒後の惨劇を予想した。
ところが。
「オラァ!」
六条先輩の手が伸びる。
紅葉の胸倉を掴み上げようとしたのか。
あるいはいきなり殴りかかろうとしたのか、それはわからない。
紅葉が軽いバックステップでその手から逃れたからだ。
「……あ?」
「いきなり何をするんですか」
攻撃を避けられた上、驚いた様子すらない平坦な口調での非難。
あり得ない状況に六条先輩の思考には一瞬の空白が埋まれたらしい。
「用がないなら行きますね」
その隙に紅葉は黙って背中を向けて去ろうとする。
「な……」
ぷちん、と堪忍袋の緒が切れる音が聞こえたような気がした。
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