第32話 眠れぬ夜は誰のせい?【さくら視点】
目が覚めたら、薄暗い静かな室内にいた。知らない場所だわ。ここはどこなのかしら?
私は、ベッドの上で服を着たまま寝かされていたらしい。身体の節々と頭がガンガンと痛む。ああ、この痛みはアルコールによるものだわ。
今まで何をしていたのだっけ? 福山駅から尾道にまで移動して、2人でぶらぶらと観光して歩いて、お酒を飲んで――その先が思い出せないの。
上半身を起こして真っ先に目に入ったのは、天蓋ベッドのひらひらだった。
あれ? このベッドやけに広くない? ビジホのダブルベッドなんか比じゃない。これはクイーンサイズじゃないかしら。
嫌な予感が脳裏をよぎった。
ベッドの横に設置してあるソファや、机の上に当たり前に置いてある灰皿、すべてが異質だわ。室内は消臭スプレーの独特なにおいがするし。
血の気がどんどん引いていく。ここはもしかして――ラブホテル?
これまで生きてきて、ラブホテルだなんて場所に縁がなかったものだから、ここが本当にラブホテルかもわからないのよ。
がちゃり、と部屋の入り口から鍵の開く音がしたと同時に、愛美がコンビニで買ったであろう袋をぶら下げて入ってきた。
私と目が合うなり「あっ」と声を上げる。
「酔いはどう? もう冷めた?」
何よその言い方。ここがどこかわかっているのかしら? 自宅じゃないのよ。
「どうしてこんな場所にいるのよ」
ソファ横にある冷蔵庫にペットボトルを入れながら、愛美は「なんでだろうねえ」と人ごとみたいにつぶやいた。
「はぐらかさないで、教えなさいよ」
ぱたん、と冷蔵庫の戸を閉めてから、ソファの肘掛けにもたれた彼女は、上目遣いでじっと見据えた。
「知ったら後悔すると思うよ~? それでもいいの?」
近づいた愛美もどこか酒くさいわ。頬を桃色に染めて調子よさげに「えへへ」と首を揺らしている。
「愛美、相当酔っているでしょう?」
「わたしより、さくらのほうが酔っていたけどなあ~」
「ふうん……。もったいぶらずに教えなさいよね! 知らない方が気持ち悪いわ」
「さくらがラブホテル行きたーいって言ったんだよ。だから、しぶしぶ付き合ったんだけど」
「は、はあ?」
「嘘じゃないよ~? 信じられないだろうけどさあ。そうだ。せっかくだから、一緒にお風呂入ろうよ。さっき見たんだけど、すっごく浴槽大きかったんだよ~!」
ご機嫌なまま、愛美は浴室へお湯を入れに行ってしまった。
――彼女とのやり取りを反芻する。
私が? 愛美をラブホに連れ込んだということ? どういう流れでラブホテルに行きたがるのよ。これまで一度も利用したことないのよ?
落ち着くのよ、私。
ラブホなんてただの宿泊施設。きっと「遠出したのだし、ビジホに泊まるなんて味気ないわ! せっかくだし、ラブホにでも泊まってみる?」という流れじゃないのかしら? 酔っ払って、気持ちが盛り上がっていたのよ。そうに違いないわ。
そもそも、今、動揺することがおかしいのよ。
私たちは同居しているのよ? そりゃ、寝室は別々だし、一緒にお風呂に入ったことはないけれど――なんなら、愛美の裸体なんて見たこと……。
「どうしたの? まごまごしちゃって」
「別に! まごまごしていないわよ!」
にやにやと嫌な笑みを浮かべながら、そうかなあ? と愛美はベッドに腰掛けながら言った。
それから、愛美がコンビニで買ってきてくれた缶ビールを2人で飲みながら、バラエティ番組を見ていたら、あっという間に浴槽から水があふれ出す音がし始めた。
この10分ちょっとの時間が、ひたすら長い時間に感じる。
愛美が浴室へ蛇口をひねりに行って、すぐにベッドに戻ってきた。
「お風呂の湯が溜まったみたいだよ~、一緒に入ろうかあ」
まるで死刑宣告を言い渡された罪人の気分だわ。
私の気持ちはどん底なのに、どうして彼女はへらへらしていられるのかしら。これから服を脱がなくちゃいけないと思うだけで、恥ずかしさで心臓が爆発してしまいそうだというのに。
「さくらあ、まだ緊張しているの?」
ベッドの上で体育座りをしている私の横に座って、彼女はタイツを脱ぐ。
「あなたには恥じらいはないの?」
愛美はピンクの唇をとがらせた「失礼だなあ」
「ないわけないでしょー。でも、さくらとは恋人同士だから、一緒にお風呂に入りたいなって思うんだよー。おかしいかなあ?」
大きな目を細くして、照れくさそうにはにかむその姿を見て、胸がぎゅううっと締め付けられる。
大好きな相手にこんなことを言われたら、後に引かないじゃないの。
「わかったわ。一緒にお風呂に入りましょう!」
ドキドキしてたまらないけど、我慢しなくちゃ。恋人同士だもの。一緒にお風呂くらい慣れなくちゃいけないのよ。いつまでも生娘気分じゃいけないわ。
さっきまで陽気だった愛美は一変して、申し訳なさそうに肩を落とした。
「ごめんね。無理強いしちゃったね。先にお風呂入るよ」
「どうして? 愛美が謝ることじゃないわ」
「ううん。だって、さくら震えているもん。無理してるでしょ?」
自分の両手は確かにがくがくと震えていた。
「こんなのただの生理現象だわ! 平気よ!」
「平気だったら震えないでしょ~? また今度にしようよ、ね?」
こんな時に限って、すごく優しいから申し訳なくなるのよ。私の頭を撫でてから、愛美はすぐ立ち上がる。
「じゃあ先に、お風呂入るねえ」と言う愛美の細い腕を無意識に掴んでいた。
理性が働き出した頃にはもう遅くて、掴んだ彼女の細い腕を引き寄せて、小さな身体を抱きしめてしまっていた。
衝動的に動くことなんて、これまでなかったのに。おかしいわ。どうにかしちゃっているわ。
狂ったように叩きつける心臓がうるさい。
「え?」
「ごめんなさい。一緒に、入りましょう」
愛美の首筋と髪の毛からは甘ったるいにおいがする。これだけで、頭がくらくらしてしまう。
「本当にいいの?」
振り向いた愛美と目線がぶつかって、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。その目はまるで私に覚悟を問うているかのよう。
「いいわ。ただ、照明は暗くしてほしいかも」
俯いているせいで、彼女の表情が影になってよく見えない。
「もちろん」
私たちはそれぞれ着ている衣服を脱いで、お互い目を合わせないようにして、浴室へ足を踏み入れた。
この時をこれまで待ち望んでいたはずなのに、愛美のことをこれっぽっちも見ることができない。
大きな乳房やなめらかな白い肌が目の前にあるだけよ? どうしてそれだけで冷静でいられなくなるの?
これまで頭の中で何度も衣服を脱がしていたというのにね。
浴室はあまりに広々としていた。
2人なら泳ぐこともできそうなほど広い浴槽は、幼い頃に憧れていたアニメのヒロインが入っているようなそれだ。「わあ」とつい声が漏れてしまった。
「すごいわね! こんな大きなお風呂に入るなんて初めてよ」
「でしょ~? 2人で入る方が楽しいと思ったんだよ~。あとね、泡風呂の入浴剤もあったから入れてみたんだ。ジェットバスらしいから、後で試してみよう?」
コスメを語るときのように愛美は目を輝かせている。さっきまではどうなることやらと思っていたけれど、案外楽しいかもしれないわ。
身体や髪の毛を洗ってから、2人で浴槽に浸かった。ちょうど良い湯加減で、「ふう」とため息が自然と出てしまう。
いつものボリュームのある髪の毛が、濡れて鎖骨に張り付いていた。肌から滴る水滴だとか、火照ってとろんと蕩けた目元やしっとりと湿った長い睫毛。
目の前にいる人が、これまでずっと手を伸ばし続けてきた相手だと、いまだに信じられないの。
いやらしいな、と思わないわけがないわ。好きな相手なんだもの、そういう感情だって湧かないわけがないのよ。
ただ、愛美とそういう行為を――だなんて、想像もできないけれど。
「さくらはラブホテルははじめてなんだっけ?」
「そうね。相手がいなかったもの」
薄々感づいていたけれど、この口ぶりは初めてじゃないのね。
「さくらなら、いくらでも相手がいそうだけどなあ」
「そんなことないわ。非モテだもの。これまで誰とも付き合ったことなかったし」
「その容姿で自称非モテは反感買うぞ~? そうだ。せっかくだし、泡を立ててみようか」
壁にある緑色のスイッチを押すと、轟音とともに浴槽の側面から湯が噴き出す。それと同時に、泡がもこもこと水面に立ちはじめた。
2人して「おー!」と感嘆の声が上がる。
「すごーい! 憧れの泡風呂だよお」
愛美は泡をすくって、息を吹きかける。私も泡を両手で合わせてみたり、頬を埋めてみたりする。
幼い頃に憧れていた泡風呂が、大人になってから経験できるなんて思ってもみなかったわ。母親に泡風呂の入浴剤をよくせがんでいたっけ。でも、家だとちゃんと泡立たないのよね。
2人して泡まみれになって、ばかみたいだなと思った。ラブホテルで子供みたいにはしゃいじゃうなんて、おかしい。
「さくらが楽しそうにしてくれて、良かったよ~」
「急にどうしたの?」
「ううん。なんとなく。飲んでいるときにしんどそうだったから心配だったの」
「しんどそう? 私が?」
「なんとなくだけどねえ。覚えていないならいいんだけどね」
愛美はジェットバスのスイッチをもう一度押した。急に浴室がしんと静まりかえる。その手慣れ感に、もやもやしてしまう。
誰とラブホテルに来たのだろう。どんな間柄だったのだろう。愛美はその人のことを好きだったのかしら?
一緒にお風呂に入って愛し合えるような相手と付き合っていたこともあるのかしら。
嫌だ。考えたくもないのに。
きょとんとした顔をして、小首を傾げた。「どうしたの?」と聞く声がいつもよりも猫撫で声に聞こえるのは気のせい?
いても立ってもいられなくなる。目の前にいる生まれたままの姿の彼女を、むちゃくちゃにしてしまいたい。独占したい。私のことだけを考えていてほしい。
「キス、しましょうよ」
泡にまみれた愛美は大きく目を見開いて、すぐ俯いて、私の手を握りしめた。
ぎゅうっと柔らかい手が強く、私の手を包み込む。
「いいよ。キス、しよう?」
耳まで赤くなっているのは、湯船に浸かっているせいなのか、照れているからかもわからないわ。きっと、私も耳まで赤くなっているのだろうな。身体が火照って仕方ないのだもの。
お互いの身体をくっつけて、唇と唇を合わせるだけのキスを何度も交わした。
柔らかい唇が触れるたびに、頭がふわふわとして目の前の行為のことしか考えられなくなった。たまに漏れる彼女の吐息のせいで、ますます気持ちが高ぶって、離れられなくなる。止まらなくなる。
人の唇がこれほど柔らかくて、唇に触れると気持ちいいってことを初めて知った。
「さくらあ……激しいよ」
ふにゃふにゃになった愛美が上目遣いで目を充血させていた。
「ご、ごめんなさい。気持ちよかったのよ」
「き、気持ちいいなんて……のぼせちゃうから出るよ!」
早々に愛美は浴室から出て行ってしまった。
1人きりで取り残されてしまった後、思い出したかのように頭がズキズキと痛み出す。
貪るようなキスをしていた、私らしくない自分が恐ろしい。
いつも抑え込んでいる感情が、顔を出してしまった。愛美が止めてくれなかったら、一体どうしていたのだろう?
こんな私に愛想を尽かせて、愛美が私から離れてしまったらどうしよう。
また、好きな相手がいるからと言われたらどうしよう。
そうなったら、私はこれまでみたいに耐えられるのかしら?
「さくら~、のぼせちゃうよお~?」
部屋から私を呼ぶ声がしたから、「はあい」と返事をして湯船から出た。
今夜は多分、一睡もできないだろうな。
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