第50話 あなたがいないと生きていけない【萌花視点】

 ぼーっとしていたら目の前に美月がいて、ダーツをするつもりもないのにダーツバーなんかに来ていた。


 2人で酒ばっかり飲んでるもんだから「なんでダーツするつもりもないのに、ここにきてるんだよ」と言いたげな店員の心の声がなんとなく聞こえる気がする。

 あたしに聞かないでくれ。連れてきたのは美月のほうなんだからさ。


 美月はにっこにこして「次は何飲みます~?」と目の前に並んでる酒瓶を指さした。

 別に飲む酒なんてどうでもよかった。でも、素面だと弱音を吐いちゃいそうだから、酒を頼む。「ターキーのロックください」

 横に座っている彼女も「じゃあ、私もそれにしようかな」と声を弾ませる。


 今日の美月は様子がおかしかった。

 いつもはつんけんとしていて、嫌味をたらたら言うのに、今日は何も言ってこない。普通の可愛い女の子になってしまっている。

 じいっと美月の顔を見ていたからか、彼女が目をぱちくりとさせて微笑んだ。


「どうかしましたか?」

「今日、何かあったの?」

「どうして?」

「なんか、いつもと違う気がするから。生理中?」

「先輩、私が生理中の時にどうなるか知ってるくせに。とぼけないでください」


「どうぞ。ワイルドターキーのロックです」

 明け方だからか、やけにやる気のなさそうな男性店員が、あたしと美月の間を割って入るが、すぐに裏にひっこんだ。

 じーじーと鳴き声のような古いエアコンの音が店内に響いている。


「じゃあ、乾杯」


 両手で大事そうにグラスを持ち、あたしのテーブルに置きっぱなしのそれにカチンと合わせた。


「さっきも乾杯したじゃんか」

「そうですねえ」


 ワイルドターキーを舐めるように飲む。バニラのような甘い香りだけど、味はパンチが効いている。この味わいがバーボンウイスキーらしくて好きなんだよね。

 目を伏せたまま、美月は片手でグラスを持ってそれを飲んでいた。


 いつもよりも口数の少ない美月は、彼女らしくない。


「今、何考えているの?」


 ぱっと顔を上げて、長い髪の毛を揺らしながら首を傾げた。うーん、と目を泳がせる。正面の棚に目線を向けたまま、小さく息を吸った。


「先輩が明日いつも以上に赤信号に引っかかればいいのに、とか」

「ほう」

「あとは、先輩の番でコンビニのレシートの紙が切れたらいいのに、とか」

「本当にそんなこと考えてた?」

「ふふ。あとは、先輩が雨の日に歩いているときに、大きな水たまりを踏んじゃえばいいのにとか」

「ひどい女だなあ」


 口元に笑みがこぼれてくる。こんな小さな不幸を自慢げに挙げる美月が、いたずらをしかけようとする幼い子供みたいだったからさ。

 カウンターに肘をついて、「あと……」と何度かつぶやいて、くるりとあたしのほうを向いた。


「こんな目に遭う先輩が、ふと、今日のこの瞬間を思い出してくれたらいいのに」


 吸い込まれそうな大きな瞳に捕らえられて、あたしは言葉を失う。


「怖がらないでくださいよ。先輩。私が何を言おうとしているか、わかってるくせに」


 わかっているから、怖い。

 誰かを選ぶということは、誰かを切り捨てるってこと。

 なんとなくわかっていて、なんとなく傍に置いていた。別に選んだつもりもないし、美月がただ、あたしのそばにいただけだと、自分に言い訳を重ねていた。

 自分が選んだわけじゃない、と言い張れば、自分が責任を負わなくて済むじゃんか。


「別に告白なんてされてないよ。懐かれているだけ」そう言って、1人の恋心を無下にしている連中がどれほどいるんだろう?

 あたしもその1人で、人から石を投げられるべき人間なんだろうな。

 別に、最悪な人間のままでよかったんだけど、それだと悲しむ人がいるから、変わらなくちゃいけないんだろうな。


 美月のまっすぐな瞳が、じいっとあたしを見据えている。


「私は先輩のことが好きです。でも、先輩の傍にいたら迷惑だろうから、今日で会うのを最後にします。大学まで遠くなっちゃうけど、実家に戻って、普通に生きて行こうと思うんです」


 ただ告白されるだけだと予想していたから、拍子抜けた。


 美月らしくない選択だと思った。プライドが高くて誰かに頼ろうとしない彼女が、親に泣きついている様を想像することができなかった。

 そんな美月にとって、この選択は生半可な気持ちでしたものじゃないんだろう。

 あたしとは違う。あたしよりも、ずっと、美月の方が大人だ。


「達也さんには話しているの?」

「もちろん。何も知らないのは先輩だけですよお~? 私の部屋はもぬけの殻なんですからっ」


 からからと肩を震わせて笑いながら、美月は酒を煽る。

 美月が無理をしているとき、目元がぴくぴくと震える。今もそうだ。無邪気に振舞っているけど、無理をしている。


「本当にそれでいいの? 無理してないの?」


 むう、と彼女は頬を膨らませて「先輩に言われる筋合いはありませんよっ」と舌を出した。


「私の人生は私が決めるんですよ。先輩はもう退場した友人Aなんですから、口出ししないでください。人の心配をしている場合じゃないでしょう? 美鈴さんのことを大事にしてあげてくださいよ」


 あたしは何も言い返せなかった。

「人の心配をしている場合じゃないでしょう?」まさにその通りなのに、美月にそれを言われたくはなかった。

 手元に居続けていると信じていたのは、あたしだけで、美月は手の届かない遠くに行ってしまっているんだ。


「情けないなあ、あたし」

「先輩が情けないのは前からでしょ?」

「……美月は辛らつだなあ」

「私が辛らつな言葉を吐くのは、先輩に言い返してほしいからですよ」


 その一言を聞かなかったふりをして、あたしは水っぽくなったワイルドターキーを飲み干して、少し多めにお金を置いて、席を立った。


 別れ際に美月に言葉を残そうかとも考えたけど、ただでさえ情けないあたしがもっと情けなくなりそうだったからやめた。

 美月との関係はトラウマだったけどさ、トラウマになるってことは、美月のことを結構好きだったんだよ。愛着がなくちゃ、心にも残らないじゃんか。

 だから、正直言うと、寂しいんだと思う。


 腐れ縁でもあった彼女との別れが、こんなあっさりしたものとは、思ってもみなかった。



 まだ暗い夜の街。


 あと数10分もすれば、次第に空は明るくなっていくんだろう。

 タクシーの深夜増し料金が通常料金になる時間になれば、真っ暗な空を飛ぶカラスたちが、地上に降りてきてその辺のごみを漁り始める。

 ゴミを漁るカラスを一瞥しつつ、コンビニ前で一服する朝の時間が何よりも退屈で、愛しかったな、と思う。


 こんな汚い街が、あたしは好きだ。


 片手を上着のポケットに入れて、キャリーバッグをうるさく引きずる。

 がらがらがらがらがらがらがら。


 いつもはうるさいパチンコ屋もすっかり静かに眠っていて、街中にはがらがら音だけがうるさく響いていた。

 一歩、一歩と歩くだけで、冷えた朝の空気が喉を凍らす。


――あたしはこれからどう生きていくんだろう。


 わからない。

 けれど、帰らなくちゃいけない場所がある。

 誰にどう言われても、笑われても、あたしが帰るべき場所はそこしかなくて、一緒にいるべき相手は美鈴しかいない。


 恋は盲目だから、愚かになっているだけかもしれないけど、今の自分の感情以上に、信じられるものなんて、ないからさ。


「美鈴は、もう寝ているかなあ」

 天を仰いでみても、真っ暗な空には答えはなさそうだ。



 キャリーバッグを引きずりながら、ついこの前まで住んでいた部屋の入口に立った。自分が住んでいたはずなのに、インターホンを鳴らそうとしている指が震えている。


――ピンポーン


 無音。もう眠っているんだろうな。

 もう一度、インターホンを鳴らしてみたけど、音沙汰がない。


 出て行くときに合鍵は渡してしまったし、朝まで待つといっても行く当てもないんだよね。こっそり鍵だけ持っておけばよかったな、と後悔。


 玄関の前で尻餅をついた。

 どっか別の場所に行くにも当てがないし、店に入るための金もない。なんなら今、めっちゃくちゃ眠い。朝だもん。ずっと歩いていたしさあ。


「人生うまくいかね~~~~」


 こんな弱音を吐いても、誰も聞いてくれない。


 ふと、電話をかけたら、寝ている美鈴を起こせば部屋に入れるんじゃないか? と頭に浮かんだけど、朝日が昇りはじめている時間に、無理やり起こしてしまうのはかわいそうだから、やめた。


 キャリーバッグに顔をうずめると、一気に睡魔が襲ってきた。


――あたしって何のために生きてるんだろう?


 わかんない。生きている意味なんてわかんないけどさあ、別にそれでいいじゃん? 生かされているから生きてるだけだし、それ以上の理由付けに頭使うのばかばかしく思えてきたよ。


 酒と美鈴さえあれば、それだけで十分だよ。たぶん。


 徐々に意識が遠のいてきた。

 死ぬこともないだろうし、美鈴が起きる頃まで、ここで待っておこう。

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