第5話 いつもあなたは。【さくら視点】
私にとって、ふとした瞬間に思い浮かぶ大切な相手はたった一人しかいない。
でも、脳裏に映る彼女は常に微笑を浮かべて、私の知らない誰かに囲まれている。
私の手の届かない場所で楽しそうに過ごしているわ。
出会ってから今まで、私は愛美の隣にいることがふさわしくないと思っているの。
それが何故かはわからないのだけれど。
私は自宅で仕事をしている。
いわゆるトレーダーだ。元々はアルバイトをしていたのだけれど、他界したパパの遺産で株をはじめて、今はトレーダーだけで生計を立てている。確か5000万はあったかしら? 今は順調に資産を増やせているわ。
そのことは愛美には話していない。彼女はただのOLだから、話してしまうと気を使わせてしまうんじゃないかと不安なのだ。
こんな風に思い悩んでることも、絶対に知られたくはないわ。愛美には、ただの陽気な高飛車女だと思われていたい。
じゃなきゃ、いつか失ってしまいそうだから。
「わからないな〜! あたしだったら嫌われてもいいから好きだって言っちゃうけど。女なんて星の数ほどいるんだよ?」
今日も同じマンションの住民が働いているバーにやってきてしまった。
別に目の前にいるピンク頭のことが好きなわけじゃないんだけど、彼女には話しやすいのだ。それに甘えることがよくないと頭では理解しているのだけれど。
「愛美のことを好きだなんて言ってないでしょ!」
「えー? どう見たって好きじゃん? それはライクじゃなくてラブでしょ? あたしも恋したいな〜〜! 羨ましい」
「お前には彼女いるじゃねえか」
マスターに軽く小突かれて萌花はえへへ、とにやけた。
髭を生やした渋いマスターは私の空になったグラスを一瞥して、何を飲む? と優しく聞いた。
萌花はグラスを磨きはじめた。
「じゃあ、ジントニックをお願い」
「さくらちゃん、ジントニックが好きだよねえ。よかったら今日はボンベイで作ってみようか?」
「ここって、ビフィーターしかないんだと思ってました」
「あー、表には出してないからね。冷凍庫に入れてるんだよ。ロックで飲むとトロッとして美味しいんだな、これが」
「じゃあ、折角だわ。ボンベイのロックに変更してもらえる?」
厳つい顔のマスターはふにゃっと微笑んで「あいよ」と答えた。
愛美と一緒にテレビを見るとき、いつもこのマスターみたいな男性をカッコ良いと言っている。彼女はバイだから男女どちらも好きになれるのだ。
ただのビアンの私からすれば少し羨ましいけど、同時に少し寂しい。
マスターはすぐにボンベイサファイアのロックをカウンターに置いた。
からん、と氷が音を鳴らす。
「ありがとう、頂くわ」
ボンベイのロックを舐めるように飲む。ふわっと香る華やかな匂いが鼻を通り抜けた。
飲みやすくて爽やかな味だ。とても美味しい。
「美味しいだろう? さくらちゃんみたいな癖の強い酒が好きな子には物足りないかもしれないけどね」
「いいえ。とても美味しいわ。癖ね……ウイスキーとは別だもの」
萌花はグラスを磨いている手を止めて、歯をむき出しにして笑う。
「いつもさくらはスコッチばかり飲んでるもんね~」
「何? いいじゃないスコッチ。あの臭さと癖がたまらないのよ」
「わっかんないな~~バーボンが一番美味しいのに」
「おこちゃまにはわからないでしょうね」
「なにをいう!!」
萌花はカウンター下に置いているチェイサーを一口飲んだ。
「そういえばさ、さくらはでいとれーだー?してるって言ってたじゃん?」
「ええ。それがどうかした? 萌花が手を出したらすぐに破産するわよ」
「違う違う。いつも暇そうだからさあ、時間あるならうちでバイトしてくれないかなーってね。今求人出してるんだけど、人が来なくってさー。今、あたしとマスターの二人だけなんだよね」
「二人でも十分じゃないの」
やれやれとわざとらしく萌花はため息をついた。
「今の時間はがらがらだけどね? 深夜帯にお客様が多いんだよなあ。団体客が一組でも来店したらそれだけでキツイんだよねー。週に数回でいいからさ。ね?」
私はつい、愛美のことを考えた。
いくら近所だといっても、深夜のバイトなんていい顔しないはずよ。
彼女がいるといっても、萌花は女の子なのだし。愛美は私が女性が好きだって知っているわけだし。
きっと、嫌がるに決まってる。
嫌がってくれるに決まってる。
嫌がらなくても「夜遅くに出歩かないほうがいいよ」と言ってくれるはずだわ。
「考えておくわ。恐らく難しいとは思うけれどね」
「そこをなんとかー!」
「ダメよ。一人暮らしならまだしも……」
目の前の彼女は腑に落ちてないような「ああ」をつぶやいて、再び水を飲んだ。
帰宅すると洗面所で濡れた髪の毛を乾かしている愛美が立っていた。
背後に立つまで私が帰宅したことに気づかなかった彼女は、「ただいま」と声をかけたときに「わあ。今日は早かったねえ」と間延びした平坦な口調で微笑んだ。
「今日は一軒だけにしたの。あなたは晩御飯食べたの?」
「うん。会社の人とご飯に行ってきたの~。田中さん、覚えている?」
「営業の女性だったわよね」
「そうそう。大学が京都だったらしくてねえ、わたしも関西だったから気が合っちゃってね~」
ドライヤーの風音がうるさい。
「ふうん。愛美はいつも誰かと一緒にいるわね」
「そうでもないよ~。普通だよ~」
生乾きの髪の毛をなびかせながら、愛美は乾かす手を止めない。
こんな時に、私はただの同居人なんだなあ、と思う。
馬鹿馬鹿しい考えだってことも理解しているわ。ただ、何でも私のことは二の次で、一番は別の事柄なんだなと、常に感じてしまう。気のせいであってほしいけれど、きっと私の勘は正しいわ。
仕方ない。わかっているの。私はきっと愛美にとっての一番ではない。
じゃあ、一番は誰?
それは、まだわからない。知りたくもない。
私はリビングのソファに腰かけて、テレビをつけた。
知らないドラマ、くだらないバラエティと、堅苦しいドキュメンタリー。どれもピンとこない。
愛美はドラマやバラエティを好んで視聴する。それが面白いと感じるらしい。
いつだか「音がないと寂しいもん」と話していたわね。
洗面所から歩いてくる愛美の可愛らしい足音が近づく。
「あれ、今面白い番組やってないっけ?」
「どうなのかしら。あなたと違ってテレビを見ないもの」
そうだねえ、と苦笑いを浮かべて、愛美はソファに腰かけた。いつも使ってるシャンプーの匂いに、甘ったるいフローラルの香りが混ざっている。ボディクリームを塗ったのね。
パジャマを着た愛美は耳に髪の毛をかけて、私のほうを向く。「ん? どうかした?」と大きな茶目の中に私の戸惑った顔が映り込んだ。
「別に、なんでもないわ」
「何でもなくないでしょう? もう、さくらちゃんはわかりやすいんだからあ」
えへへ、と微笑んで愛美は私の頬をつつく。
愛美は人との距離感が近い。私の頬をつついたり、手を握ったり、腕を組んだりする。
誰にでもそうなの? とは聞けない。私が聞きたい答えを言ってはくれないだろうから、聞く必要もないの。
愛美の大きな胸につい、目線を落としてしまってすぐに逸らす。ゆったりとしたパジャマですら目立つ胸だ。会社じゃあ、男女ともに注目を浴びているに違いないわ。そいつらの目を潰してやりたい。
「今日もまた赤井さんの店で飲んでいたの~?」
「そうね。友達の店のほうが気兼ねなく飲めるのよね」
ふうん、と相槌を打って愛美はテレビの番組表を開いて眺めた。
「最近よく一緒にいるよねえ、楽しそうで羨ましいなあ」
「いつも誰かと飲みに出かけている愛美には言われたくないわ」
「ほとんど付き合いだもん。楽しくないよお。十時からドラマはじまるからチャンネル替えとこ〜」
テレビに映ったのはクイズ番組だった。芸能人と大学生がクイズを解いているらしい。
隣の彼女は私の肩に頭を乗せた。あまりに唐突だったから、つい、びくりと肩が跳ねた。
甘ったるいフローラルの匂いで頭がくらくらする。
「さくらちゃんと一緒にいるときが一番安心するんだよお。他の人といると気を使うし。職場の人とだと本音で喋れないもん」
ばくばくと鳴り続けている心臓の音が彼女に聞こえてしまわないか不安になる。
「ふうん。それは嬉しいわ。私も愛美のことを大事に思っているわよ」
「えへへ、大事な親友だよお。これからもよろしくね~」
出会ってすぐに私たちはお互いに女性を好きになれることを暴露し合っているの。
ナンパから助けたときに愛美は「男性よりも女性のほうが好きだから、ああいうの困っちゃうんですよね」と話していた。男性とも付き合った経験はあるらしいが、微妙だったと笑いながら言っていたわね。
私たちはただの同居人ではないのよ? お互いを恋愛対象として見ることができる者同士なの。
なのに、本当に友達だなんて思っているわけないじゃない。
あなたと手を繋ぎたいし、強く抱きしめたい。キスもしたいし、生まれたままの姿の愛美と一夜を共にしたい。
なのに……。
「萌花に時間がある時にうちで働かないかって誘われたのよ。どう思う?」
思い切って聞くと、彼女はにへらと顔を緩めた。
「いいんじゃない~? いつも一人で仕事しているでしょ? 良い気分転換になるんじゃないかなあ?」
屈託のない笑みはきっと私の為を思って言ってくれているのだわ。けして、苦しませようとなんてしていない。
愛美はいつもそう。私が聞きたい答えを言ってはくれない。
「そうね。萌花に相談してみるわ」
CMで流れるクリスマスソングが私のことを小馬鹿にしているような気がした。
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