第29話 灰色の土曜日【さくら視点】

 どうしてこんなことになったのかしら?


 洗面所で化粧をしている後ろで、愛美が長い茶髪をコテで巻いている。

 仕事の時より、メイクに気合が入っていることがすぐにわかるわ。

 いつもよりまつげが上向きだし、アイシャドウもやけに可愛らしいパステルカラーだわ。それ、先日買ったばかりのキッカのアイシャドウじゃないの。


「別に、帰省するだけなのにおしゃれする必要ないじゃない」


 コテで前髪を器用に巻きながら、小首をかしげた。


「だって~、さくらのお母様に会うんだもん。気合いれなくっちゃ」

「差し入れをしたらすぐに帰るし」

「ん~、どうせ遠出するんだから、どこか寄って帰ってもいいかもしれないよねえ」

「何もないわよ。あんな田舎」


 あんなところ近づきたくもないもの。

 本当なら、あんな母親なんて、野垂れ死んでしまって構わないほどなのに。


――なのに、愛美と一緒に帰省するなんて、おかしいわ。


 私が重い腰を上げる気になったのは、つい1週間前のことだわ。


 以前、妹のひまわりからの電話がかかってきたけれど、何かと理由をつけて帰省することを拒んでいたの。

 仕事が忙しいだとか、友達から猫を預けられているとか。適当に理由をつけているうちに、乳がんの母親は手術を終えて退院したらしい。

 退院したなら私の出る幕はないだろう、と胸を撫でおろしている時に、再び通話がかかってきたのよ。


「ねえ。お姉ちゃん、いつになったら帰ってくるの?」

「今、仕事が忙しいのよ」

「いつも仕事が仕事がって、私、信じられないんだけど」

「信じてくれなくて結構よ」

「ママがお姉ちゃんに会いたがっているんだよ」


 あの人が私にわざわざ会いたがっているだなんて、にわかに信じがたかった。

 玄関口から「ただいま」と愛美の声がかすかに聞こえる。ああ、もう夕飯の時間なのに。


「検討するわ。今からご飯だから、とりあえず電話は切るわね」

「へえ、仕事が忙しいのにこの時間に夕飯を食べるんだ」

「別にひまわりに言われる筋合いはないわ」

「私はずっとお姉ちゃんが帰ってきてくれるのを待っていたんだよ」

「知らないわ。第一、あなたは私を憎んでいるんじゃないの?」

 

 ひまわりは急に黙り込んでしまった。「それじゃあ」と私は無理やり電話を切る。


 すぐに「さくらー、まだ仕事なの?」とリビングからいつもの愛美の声が聞こえる。「んん、大丈夫よ。今からご飯にしましょう」と返事をして、自室を出た。


 こんな通話をし終えた後に、どうして私が帰省しようと思ったのか。それは夕飯の時になんとなく愛美に打ち明けてしまったからだった。

 これまで一度だって打ち明けたことはなかった家族の話を、つい愛美にしてしまったの。

 どうしてだろう? 今さら、実家を捨てた罪悪感でも湧いたのかしら?


「お母さんが会いたがっているなら、帰省したほうがいいよ」


 たったその一言で、これまで意固地になっていた自分がくだらなく思えてしまったのよ。おかしいでしょう?


「1人が嫌なら、わたしもついていこうか? 絶対、今会わないと後悔するよ」

「そこまで言うなら……」


 自分も簡単な女だな、と思うわ。

 好きな人からのたった一言だけで、自分の決心がどうでもよくなってしまうのだもの。

 


 私たちは一泊分くらいの荷物を背負って、広島駅からJRに乗ることにした。

 駅で電車内で食べるお菓子や、持っていくお土産やらを両手いっぱいに買って、私たちは電車に乗り込んだ。


 転換式クロスシートの車両では、市電とは違った光景が広がっている。

 家族連れが向かい合って談笑していたり、カップルが居心地悪そうに座っていたり。

 それらを横目に二人掛けの席に私たちは座って、さっき買ったお菓子だの飲み物を袋から取り出した。

 私が窓際に座っていて、愛美が通路側に座ってくれている。


「JRに乗るなんて久しぶりかもしれないねえ」

「言われてみればそうね。糸崎行なんていつぶりかしら」


 以前、帰省した時ぶりだわ。

 あの時は1人で帰省したのだわ。

 帰省した実家は、やけに居心地が悪くてたまらなかった。

 母には「もっといいお土産を持ってきなさいよ」と悪態をつかれるし、ひまわりには口を利いてもらえなかったしで、散々だったわ。


「わたしは去年の酒まつりぶりかなあ。会社の同期と行ったんだけどね、ひどい泥酔しちゃって結局介抱して終わっちゃったなあ」

「それもいい思い出じゃないの。私は一度も酒まつりに行ったことないわ」


 できる限り実家の近くに行きたくなかったのよ。

 憂鬱な気持ちを抱えている私にはお構いなしに、あっけらかんと愛美は「そうなんだ」と頷いた。


「じゃあ今年は2人で行こうねえ」


 その屈託のない笑みにどんな気持ちが込められているのだろうか、と考えるだけで嫌になる。

 私はこの言葉だけで満足しなくちゃいけないのに、「本当は私じゃない誰かと一緒に行きたいんでしょ?」といじわるを言いたくなるのよ。


 でも、そんなことを言えるわけないでしょう?


「そうね。たくさん愛美との思い出を作りたいわ」


 本当の気持ちなのに、どこかむなしい。

 隣に座っている愛美は鞄からスマホを取り出して、眺めはじめた。


「そういえば、実家はどのあたりなの?」

「どこだったかしら。最近引っ越したらしいのよね」


 前にひまわりが通話で「田んぼの中で生活している」と言っていたような気がするけれど、聞いていた引っ越し先はそれほど田舎ではないはずだわ。

 彼女は昔から、大袈裟に話す癖があるの。直すべき悪癖よ。


 ひまわりがLINEで送ってくれた住所をコピーして、グーグルマップに貼り付けてみる。


「福山駅から徒歩15分みたいね……田舎じゃないじゃん!!」


 思わずらしくない言葉を喋ってしまったから、はっとして口元を抑えた。隣にいる愛美を一瞥すると、肩を揺らしながら笑いをこらえていた。


「さくらが、じゃんなんていうの初めて聞いたよ~」

「そんなに笑うことないじゃないの。たまには"じゃん"くらい言うわよ」

 

 この言葉遣いもかつて父に厳しく躾けられた名残だわ。本当は私だって、普通の女の子たちが使うような若者言葉を使って話したかったのよ。

 もう、父は他界したから関係ないけれど。


 車窓から見える山々を眺めていると、かつての実家の光景を思い出す。

 いつだかのひまわりが言っていたように、あの時住んでいた家は田んぼに囲まれていて、コンビニすらない田舎町にあった。

 自転車でいくら走っても辺り一面は田んぼだらけで、車の免許すら持っていない私はあの町をひたすら憎んでいた。


 あんな町にひまわりを置いて逃げたことを、今でも申し訳なく思っているのよ。


「なんとなく、わたしも一緒に来たけど、図々しくなかった?」


 私の心の中とは裏腹に、能天気な顔でヤングドーナツを咀嚼している姿が愉快でたまらなかった。


「ふふ、別に、図々しくないわよ」

「何笑ってるの! だって、わたしたち付き合ってるけど親御さんには言えないじゃんか? 『ただの友達が何で実家についてきてるの?』と思われない?」

「思われたっていいじゃない。あんな人たちに何を思われようと、どうでもいいわ」


 不服そうに愛美は眉をしかめた。

 きっと幸福な家庭で育ったであろう彼女には、私の気持ちなんてわからないのだろう。それでいい。わからなくていいのよ。

 ただ、今は隣にいてくれるだけで救われている。

 あなたと話しているだけで、悪夢みたいな過去の記憶を思い出さなくて済むのだから。


「あなたがいてくれてよかったわ」


 なんとなく言葉にしてしまって、その意味を反復してみるみる顔が熱くなる。隣の彼女はなぜかうつむいてしまっていた。長い髪のせいで、顔が隠れてしまっている。


「そっか。わたし、トイレに行ってくるね」


 立ち去る愛美の背中を見て、また私は彼女を不機嫌にさせてしまったかしら、と不安になる。

 できるだけ愛美には嫌われたくないのに。

 愛美の心の中にいる誰かを上回るほど、私のことを好きになってもらいたいのに。

 何故から回ってしまうのかしら?


 やっぱり、1人で帰省するべきだったかもしれない、と改めて考える。

 愛美に甘えてしまったから、罰が当たったのだわ。まだ、彼女は私のことを好きですらないのに。

 窓の外は雲一つない青空が広がっていて、ますます自分が惨めに思えてくる。


 到着まであと一時間弱、どう振舞えば良いのだろう?

 

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