第30話 運命じゃない人【愛美視点】
今更だけど、私は自分の恋心というものがわからなくなってしまっている。
確かに、凜のことは好きだ。大好きだ。
これから先、嫌いになることはないと思うし、凛に会うためにさくらと付き合い始めた事実が揺らぐことはないんだよ。
でも、この「好き」は果たして本当の好きなのかな? と自問自答をするとわからなくなる。
ふとした拍子に「どうしてわたしが凜にすがっているんだろう?」と腹立たしく思うこともある。
この感情は、きらきらとした思い出を美化しているだけに過ぎないんじゃないかなって、思わなくはないの。
お金をたくさん投入したUFOキャッチャーを諦められない時みたいに、わたしはこの恋から距離を置くことができないのかもしれない。
財布が空っぽになるまでは、お金を入れ続けてしまうんだろうな。
その小銭を握り締めている手を、誰かに「ダメだよ」と掴んでもらいたいのかもしれないな。
そんな相手がたった1人でもいいから、現れてくれたら――……。
……なんて、現れたところでわたしは握り締める手を振り払ってしまうんだろうけど。
まず、会おうと言い出したのはわたしだった。
凜が出張でこっちに来ていることは知っていたし、その時に合わせて会おうと前々から考えていた。
誘うと「じゃあ、どこで飲もうか? 何が食べたい?」と聞いてくれて、トントン拍子に話は進んで。
かつてわたしたちが仲良くしていた頃に戻ったように思えた。いつも通りだ。やっとわたしは凛のことを取り戻せたんだ、と胸を撫でおろした。
「明日は友達と飲みに行くから、晩御飯はいらないよ~」
ソファにもたれたさくらは、わたしのほうを一瞥してすぐに顔を曇らせた。
長い金髪を手櫛しながら、口元をきゅっと上向きにする。
「わかったわ。じゃあ、私も萌花と飲もうかしら」
「いいんじゃない? 2人とも仲が良くて羨ましいなあ」
ますます目に光がなくなるさくらが、あまりにかわいそうだった。
自分の残酷さなんて昔からわかり切っていて、今だって本当は「ごめんね」とか「早めに帰宅するね」なんて安心させるような言葉を投げかけるべきなんだろうな。
一応、わたしたちは恋人同士なのに、これでいいのかな?
いくらわたしの私欲のために付き合っているとはいえ、これまでとは違う対応をするべきなのかなあ。
恋人らしい、とはいったいなんだろう?
「私とあなたの関係性がわからないわ。これは一体何なのかしらね」
それはわたしが教えてほしいくらいだよ。なんて、口が裂けても言えない。
凜とは八丁堀のお好み焼き屋さんで待ち合わせることにした。
「最近、お好み焼き食べてないけん」と前に話していたことを思い出しての、わたしのチョイスだ。
拘りがある県民も多いけれど、わたしは特にこれといった思い入れがないんだよね。
週末はいつも行列を作っているその店も、さすがに平日となると列はできていなくて、ほっとする。
さくらと飲みに出掛ける時に、この店の前を通るたび「ほかのお好み焼き屋に行けばいいのにね」とよく話したっけ。
店の前にかかっている暖簾をくぐって、戸を開けると「いかにもお好み焼き屋で働いている恰幅の良いおばちゃん」と目が合って、つい目をそらす。
「おひとりさん?」
「あ、えーと、誰か連れを待ってる人いませんか?」
「ああ! 奥のテーブル席で待っとるよ!」
店内を見渡すと一番奥のテーブル席に、メニューを眺めている凜が座っていた。
会うのはいつぶりだっけ? もう一か月ぶりかな?
緊張しているのか、かすかに震える右手を左手で覆って、何でもないような表情を心がけた。
彼女の座っているテーブル席に近づくと、凜がぱっと顔を上げる「思ったより早かったんじゃね」
そうだねえ、とつぶやきながら、彼女の手前の席に腰かけた。
座り心地がけして良いわけではない丸椅子のせいで、恥ずかしいけどついお尻をもぞもぞとさせてしまう。タイトスカートなんて選ぶんじゃなかったなあ。
「今日はきっちり定時に上がれたからねえ。何食べようかあ」
「うちは肉玉そばかな。愛美はどうするん?」
ばさばさと黒いまつげが瞬きを繰り返すだけで、胸がときめいてしまう。
前に会ったときは肩につくくらいのボブだったのが、短くなっている。髪の毛を切ったのかな?
ダメだ。目の前に凜がいると、調子が狂ってしまうよ。
机に広げているメニューに目線を移して、適当に目に入ったものを選ぶことにした。
「んー、わたしは肉玉そばの天かすトッピングかな?」
「お、天かすかあ。うちもなんかトッピングしようかな」
「牡蠣もトッピングできるみたいじゃん」
「いいなあ。じゃ、うちは牡蠣トッピングにするけん。他に頼むものないん?」
「あ、あと生ビールかな」
「お好み焼きと生は最高の組み合わせじゃん。うちも頼も」
こうやって何気ない会話を交わしているときが一番幸せだ。
恋愛や仕事がどうとか、将来がどうとかなんて話を凛とはしたくないんだよ。もっと気楽に中身のない話だけをしていたい。
凛がわたしの分の注文まで店員さんに伝えてくれてから、「最近どう?」とわたしに聞いた。
「どうって?」
「何でもいいんじゃけど、仕事とか、恋愛だとか」
「うーん、ぼちぼちかなあ。1か月じゃ、何も変わらないよ」
「そうなんじゃ。うちはね、婚活を始めることにしたんよ」
一瞬、目の前が真白になった。「へえ」と相槌を打つと、なんでもない顔をして凛は続ける。
「どうして婚活?」
「もういい歳じゃし、そろそろ落ち着く準備くらいしなくちゃいけんじゃろ」
「落ち着くって、まだわたしら20代じゃんか」
「”もう”アラサーじゃろ。これから先、ずっと正社員で働く自信ないし」
恰幅の良いおばちゃんが、生ビール2つを机に置いてくれた。
わたしは凜の手元に置かれている生ビールをちらりと見た後に、しかめっ面の凜を見つめた。
いつもならすぐさま乾杯を交わすのに、凛はグラスを持とうとしない。
どうして、いつも楽しくない話ばかりをしてしまうんだろう。
「でも、凛は恋愛はどうでもいいって言ってたじゃん? どうして突然婚活なの?」
「恋愛と結婚は違うじゃろ。幸せになるために誰かと一緒になるんだよ」
こんなときに、とりあえず、乾杯しよっか! と言い出せる強さがあれば、わたしは誰かの特別になれたのかな。
わたしのビールを一瞥する目線に気がついたのか、凛は愛想笑いを浮かべた。
「ごめん。乾杯しようか」
これほど白けた乾杯もそうそうないんじゃないかな。
いつもなら最高に美味しい生ビールの一口目も、なぜか美味しく感じられないよ。
――どうして、こんな人のことを好きでいるんだろう。
一緒にいても楽しくなくて、退屈で、窮屈な気持ちになる相手のどこがいいのかな?
「はいよ。肉玉そばの天かすトッピングと、肉玉そばの牡蠣トッピングね!」
恰幅の良いおばちゃんが、ニカニカと微笑んでそれらを置いていった。
そのおかげでなんとなく、わたしたちの空気も和んでしまって、お互いに穏やかな笑みが浮かぶ。
「うちさあ、あんなおばちゃんになりたいんよ。美人だとか、可愛いからとかじゃなくて、人柄がよくて場を明るくしてくれる人。あんな存在に憧れるんよね」
「そんな。凜はいつも周りを明るくしていたじゃん」
割り箸を割った彼女は「そんなことないよ」と口を尖らせた。
「ぜんぜんだよ。大学の時はそうだったかもしれんけど、社会に出てから自分の空気の読めなさだとか、気遣いのできなさを学んだんよね。うちなんかよりよっぽど、愛美の方が場を明るくできるじゃろ」
ああ、ダメだ。
また雰囲気が悪くなっていく。凜がまた、くよくよし始めてしまった。
わたしは凜を苦しませるつもりで、言ったわけじゃないんだよ。
どうしてわかってくれないんだろう。どうして、素直に受け止めてくれないんだろう。
凜のことが好きだよ。大好きだよ。
でも、今はどうして凜のことを好きになったのか、この気持ちが恋心なのかがわからないんだよ。
『そうやって卑屈な気持ちを持っているから、明るくできないんだよ。自分で空気を読めないと自覚しているなら直す努力はしたの? くよくよしてばかりじゃ、何も改善できないよ?』
言ったら傷つけるであろう言葉を、彼女に投げかけられたらどれだけ楽だろう。
「どうかしたん?」
「ううん。なんでもないよ」
わたしはお好み焼きを口に頬張っていく。
慣れ親しんだいつもの味だ。
パリッとした焼きそば麺と蒸されたキャベツの甘味がたまらないなあ。ソースのおかげでかなりジャンキーな味に仕上がっているから、生ビールがすすんじゃうよ。
机の上に置かれているマヨネーズをかけてもなお、美味しいんだよね。
あれ? お好み焼きを食べていたらイライラが収まっちゃった。まあ、いいか。
「愛美は本当に美味しそうに食べるよねえ」
「そ、そうかな? 気のせいだよ」
へへ、とはにかむその凜の顔を見て、胸が高鳴る。
やっぱり、わたしは間違いなく凜のことが好きだ。一緒にいて楽しくないことないよね。彼女の顔を見るだけで嬉しくなるんだもん。
この気持ちが好きじゃなくて何が恋心なの?
わたしは半分残っていた生ビールをぜんぶ飲みほした。
「二杯目頼もうかなあ」
「いいじゃん。うちも頼もうかな」
無邪気な凜の顔が愛しい。
でも、わたしと一緒にいることで彼女が傷つくなら、離れたほうがいいのかもしれないかも、と思う。
きっとこれは逃げだ。離れたほうがいいのかもしれない、じゃなくて、わたしが凜のそばにいることに限界を感じているんだよ。
ただでさえ苦しくてたまらないのに、これから先、誰かと幸せになる凜を見て、正気を保てる自信がない。
「もう、会わないほうがいいかもしれないね」
いつだか、凜に言われた言葉を、わたしが言うことになるなんて。
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