第45話 彼女を好きな人【美鈴視点】

 自分から切り出した「1週間だけ別れてみる」提案を、私は何度も後悔をした。

 何度も何度も、この程度で別れてしまうのならば元々別れる運命なのだ、と自分に言い聞かせていた。


 萌花は、彼女の休日である日曜日に出て行くと言って、昼過ぎ頃に荷造りを始めた。

 2人の寝室で荷造りをしている様を横目で見て、引き止めようか悩んだけれど、言い出す勇気がなくて黙っていた。


 そうしていたら、あっという間に萌花は荷造りを終えて

「じゃあ、1週間後に戻ってくるから」

 と躊躇なく出て行った。


 出て行ってから、何故引き留めなかったのかを後悔した。


 萌花が出て行くまでの経緯を弟に話すと、電話先の弟は「馬鹿じゃねえの」と嘲笑った。


「馬鹿だと一番自覚しているのは、私だし」

「姉ちゃんは昔からそうだよな。素直になれない人間は損するぜ」

「うるさいわね。萌花の荷造りがすぐ終わるのが悪いのよ」

「素直にさ〜、遠距離になるけど、関係を続けたいって言えばいいじゃんか。ぐずぐず愚痴るほど好きなのに、意味わかんねえ」

「それを言って、萌花が受け入れてくれるか、自信がないんだもの」

「それは姉ちゃんの偏見だろ? 付き合って2年以上経ってるのに、希薄な関係しか築けてないわけ? そうじゃないだろ?」


 いざ、凌介に言われると、希薄じゃない関係を築けていると胸を張って言える自信がなかった。

 それどころか、私たちは付き合っているのに、お互いのことをわかっていないんじゃないか、とすら感じる。


「私には何もわからない」

「そんな姉ちゃんと付き合ってる彼女も、物好きだよなあ。同情するわ」


 前は酷い彼女だと私の愚痴に同調してくれていたのに、いつの間にか萌花の肩を持つようになっていた。

 別にいいわ。私が悪いのは自分がよくわかってるんだから。


「あまりに寂しくなったら、凌介の家へ転がり込むから」

「悪夢だ」


 週に何度も一緒にゲームをしている姉に対して、悪夢呼ばわりをする弟も、素直ではないと思うわよ。

 


 凌介との通話を終えてから、西園寺さんに連絡をした。

 萌花と西園寺さんはとても仲が良いから、少しは手掛かりを掴んでいるかもしれない。たとえば、転がり込み先候補とか……。


「お久しぶりね。萌花から話は聞いていないけど――そうね、最近新人の女の子が入ってきていたわね! 彼女とは仲良くしているわ」

「どんな子なの?」

「私も数回しか会ってないんだけど、すっごい美人だったわ! 元カノだったらしいわよ」

「もしかして……」


 ガールズバーで働いているときに、噂で聞いたことがあった。

 自分の推しが萌花に取られたと、お客さんが嘆いていたことをよく覚えている。

 他店の売り上げトップのキャストで、見せてもらったチェキだけで、すごい美人だとわかるほど。


「萌花も性格はグズだけど美人だし、推しが可愛い女の子と付き合うって、悪くないかもしれないな!」と嘆いていた割に、やけにポジディブな人だった。


 名前はなんだっけ、確か――美月さん。


「萌花からは1度も話を聞いたことはないけど、知ってる人かもしれない……」

「じゃあ、直接確かめに行かない?」

「え?」


 そんな流れで私と西園寺さんで、萌花が休みの日にバーへ飲みにいくことになったのでした。

 


 月曜日は萌花が休みで、美月さんが出勤だと西園寺さんは言っていた。さすが常連なだけあって、シフトも知っているのね。


 私は出来るだけ早く仕事を終わらせて、待ち合わせ時間の19時に遅れないように駆け足で向かった。

 西園寺さんはトレーダーだから、時間の融通は利くらしい。サラリーマンも、仕事に対する意識を見直してほしいものだわ。


 八丁堀駅のヤマダ電機前には、すでに西園寺さんが待っていた。

 左腕の腕時計を一瞥すると、待ち合わせ時間から1分経過している。やってしまったわね。こんな日に限って会議が長引くんだから。


 西園寺さんは珍しく、パーカーとプリーツスカートだなんて、カジュアルな格好をしていた。ブロンドはポニーテールにしている。

 どこぞの雑誌のモデルのような風貌に、声をかけることに躊躇してしまうわ。私なんて、GUで買いそろえた平凡なオフィスカジュアルの格好だもの。


「ごめんなさい。遅れてしまいました」


 スマホを操作していた西園寺さんは、真っ青な目を私へ向けて「いいえ」とポニーテールを揺らした。


「5分未満なら遅刻のうちに入らないわよ! 萌花なんて、30分以上の遅刻がざらだから、慣れてしまったわ」


 自分のことじゃないのに、西園寺さんにまで迷惑をかけていると知ると申し訳なくなってしまうわね。


「萌花はひどい遅刻魔なんです……今度よく叱っておきますね」

「いいのよ! 美鈴さんには日々同情しているわ。萌花のような女をよく操縦できているわよね」


 私は萌花のことを操縦なんてしたつもりは微塵もないけれど、周りから見るとそう見えるのだろうか?

 だとしたら、萌花には悪いけど愉快でたまらないわね。


「萌花が今のように生きていられるのも、美鈴さんのおかげじゃないかしら」


 隣を歩く西園寺さんは、大それたことをしれっと言った。


「まさか、大袈裟ですよ」

「大袈裟なのかしら? 萌花には美鈴さんのような存在がいないと生きていけないんじゃないかと思うけれどね」

「意外と、あいつはしぶとく生きていけますよ。家事能力も高いですし、人当たりも良い」


 ふうん、と西園寺さんは細くて白い指を頬に添えた。


「傍から見ていると、面白いわね!」


 何が面白いのかを西園寺さんに聞いたけど、かたくなに教えてくれなかった。

 萌花は西園寺さんのことをいい子だというけれど、意外と意地悪なところもあるんじゃない。



 私と西園寺さんは萌花の働いているバーに「ただの客」らしい顔を繕って、入店した。バーなこともあって、19時過ぎの早い時間では、お客さんが皆無だった。

 偵察なんだから、それくらいのほうがちょうどいいわね。

 けれど、どうやって美月さんに萌花のことを聞き出すつもりなんだろう?


「いらっしゃいませ~さくらさんお久しぶりですっ! あれ、1人じゃないなんて珍しい」

「珍しいなんて失礼ね! 友達くらいいるわよっ!」

「別に友達がいないなんて言ってないですけど~?」


 お手本のようなぐぬぬ顔を露わにするものだから、笑いをこらえるのに必死になってしまう。西園寺さん、友達がいないのね。


 私たちはカウンター席に座ると、美月さんは小皿にサッポロポテトを盛り付けて置いてくれた。


 目の前にいる彼女――美月さんはかつて見たチェキの写真よりも美しく見えた。

 シャンプーのCMのような、サラサラの黒髪ロングだけでもうっとりとしてしまうのに、ハーフのような目鼻立ちの整った顔立ちが現実離れしているようにすら見える。


 完璧な顔をしているのに、はにかむとちゃんと可愛いところは、ずるいとしか言いようがない。


「私の顔に何かついてますかあ?」


 あまりに整った顔をしているせいで、目の前の人間だと認識できず、声をかけられたことに戸惑ってしまった。


「いいえ! ごめんなさい、あなたの顔があまりにもきれいだったので」


 うふふ、と微笑みながら小首をかしげると、肩から黒髪が零れ落ちた。


「いつも言われます。私は可愛いですもんねっ!」


 西園寺さんは唇を尖らせた。


「私は美月のこういうところが嫌いだわ。もっと謙虚になりなさいよ」

「可愛い私が謙虚でいたら、嫌味じゃないですかあ」

「わからないわ~、確かに美月は美人だけど……愛美のほうが好みなの!」

「あまたもえくぼですねっ」


 こんな美人を目前にしても、自分の恋人が一番だと言い張れる西園寺さんはすごい人だわ。

 萌花ならどうだろう? きっと美月さんのような人の前では、鼻の下を伸ばしっぱなしなのだろうな。ぶん殴りたくなってきたわ。


「さくらさんはラフロイグのロックだとして、お連れさんは何を飲みますか~?」

「じゃあ、ハイボールもらいましょうか」


 彼女と目が少し合うだけでも、反らしてしまいたくなる。


「どのハイボールが良いですかあ? うち、酒の種類が豊富なんですよねえ。どっかの馬鹿が無駄に仕入れるせいで」


 彼女の背後にずらりと並ぶ酒の瓶の銘柄を見て、納得した。バーボンに偏っているのは萌花の趣味だろう。その中に見たことがある酒があった。


「メスカルあるんですね」


 ああ、と美月さんは、棚に置かれている黄色いボトルを手に取った。隣に座っている西園寺さんは、あからさまに眉をしかめた。


「それ気づかなかったわ。芋虫入ってるじゃないの!」

「そうなんです。もう1人いる従業員の趣味で仕入れたんですよねえ。案の定、誰も飲まないから、半分も残ってるんです。そりゃ、芋虫が沈んでるボトルの酒なんて飲みたくないですよね~」


 メスカルはメキシコのテキーラもどき、だったっけ?

 付き合ってすぐの頃に、萌花が鼻の穴を膨らませながらうんちくを語っていたっけ。


「でも、この芋虫がグラスに注がれた人は幸福になれるんですって、先輩が言っていました」


 さっきまで西園寺さんと小競り合いしていた美月さんとは、表情が違っていた。


 一瞬だけだけど――とても愛おしそうに萌花のことを話しているように、私には見えたわ。

 中学生が好きなクラスの男子に対して素直になれないような、もどかしさが露わになっていた。

 美月さんは萌花のことが好きなんだなとはっきりとわかってしまった。


 付き合っているからこそ、萌花に惹かれてしまう理由もわかってしまう。だから、悔しい。

 美月さんは手に持っていたメスカルの瓶を棚に戻した。その背中に「ねえ」と声をかけると、すぐ振り向いた。


「ブラントンのロックをもらえる?」

「ああ、ブラントンですねっ! すぐに作ります」


 ブラントンは萌花が好きなお酒だった。美月さんは知っているのだろうか。

 にこにこと微笑みを浮かべている彼女に、萌花のことを聞くのは若干のためらいがあった。


「萌花が今、どこにいるか知っていますか?」


 聞くとすぐさま、美月さんは目を伏せた。さっきまで饒舌だった彼女は閉口したまま、グラスに氷を入れていく。からん、からん、と涼し気な音だけが店内に響き渡った。


「先輩を手放した人に、わざわざ居場所なんて教えませんよ」


 じっと睨みつける大きな目に圧倒されて、言葉を失った。

 とぽぽとブラントンがロックグラスに注がれていく。


「あなたには、あの人と付き合う資格なんてありません」


 カウンターに差し出されたブラントンを一瞥して、手を伸ばした。


"あの人と付き合う資格なんてありません"と言われたら、その通りなのかもしれない。私は一度萌花のことを振ろうとしたんだもの。手放したくせに、図々しく彼女面するほうがおかしいのかもしれない。


 少なくとも、今は別れているんだから。


「さくらさん、それを飲み終わったら今日は帰ってください。私は先輩のことは何も話せませんから」


 ばつの悪そうな顔をして、西園寺さんは頷いた。

 ブラントンのロックを飲み終えるまでの店内は、ただただ重苦しい空気で満たされていた。

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