第46話 横顔【美鈴視点】
「ったく、お前はどうしてすぐ俺の家に入り浸るかな」
仕事を終えてすぐに、凌介の部屋に踏み入れると、彼はうんざりしたような顔をして出迎えてくれた。
簡素な部屋のフローリングに鞄を置いて、パンストを脱ぎ捨てる。それを見て、凌介はやれやれと頭を抱えながら、さっさと風呂に入れよとバスタオルを私に投げつけた。
文句は多いけど、けして悪いやつではないのよね。
「凌介はいいやつよね。この前彼女と別れたみたいだけど、今は浮いた話はないの?」
前に萌花と喧嘩したときに、凌介の部屋に置かれてたものたちが脳裏に浮かぶ。
女性用のシャンプーコンディショナーや洗面所の歯ブラシ、それから、基礎化粧品。
はあ? と彼は私を睨みつけて舌打ちをした。
「仮に彼女がいたとしても、姉ちゃんに教えねえよ。俺の恋愛事情なんて興味あるか?」
「すっごく気になるう~! 何も知らないもん! ちなみに、前に付き合ってた子はどんな人だったの?」
「姉ちゃんの10倍美人で胸がでかい女。別にいいだろ、どんな相手でもさ」
別にいいだろ、と言われると、かえって気になってしまうけれど――あんまりしつこく聞いていると、叱られてしまいそうだったから閉口した。
また、はあとため息をついて、凌介は首をぐるりと回した。
「別に、姉ちゃんが期待するような関係じゃねえよ」
へぇ、と相槌をうちながら、どんな関係だったのだろうと考えを巡らせた。
恋人ではあったのだろうけど、なぜ別れてしまったのだろう?
私にとっては弟はいい男に見えるのだけど、これはブラコンなのかしら?
「思い出すと、やっぱりむしゃくしゃしてくるわ。ちょっと外で煙草を吸ってくる」
「じゃあ私も付き合うわ」
蛇みたいな目で私を一瞥してから「今日だけはいいよ」と凌介はつぶやいた。
びゅうびゅうと、頬を打ち付ける生温い風は、春から夏の移り変わりを感じさせた。
あっという間に、夏が訪れて、息をついている間に冬がやってくる。20代半ばを過ぎてから、時間の移り変わりが早く感じるようになった。
こうして足踏みをしている間に、歳を取っていって、大人げない中年になるのだろうな。
横に立った凌介はラッキーストライクをポケットから取り出して、煙草の箱を私に差し出した。
私は1本だけ取って、くわえるとほのかに苦い味がする。
萌花がはじめて、私の前で煙草を吸った日のことを思い出す。
付き合う前に大衆居酒屋で飲んでいた時のことだった。萌花は申し訳なさそうに「煙草吸っていい?」と私に聞いたのだった。
むしろ、どうして煙草を我慢していたのか、わからなくて「いいよ」と即答したら、満面の笑みで一服した。
なぜか、その時の萌花の横顔がたまらなく素敵だと思ったのだ。うっとりとしていた私に、彼女は「煙い?」と聞いた。「ううん」と首を振ったけど、本当は少しだけ息苦しかった。
息苦しくても、私は萌花が煙草を吸っているさまを見ていたかった。
その時に、私は彼女に恋をしていると、はっきり自覚した。
あの出来事も、昨日のことのように思い出せるのに、もう2年も前だと思うと、あっという間だったなあ。
「何、ぼーっとしてるんだよ」
凌介は私がくわえているタバコの先端に火をつけてくれた。
サンキュー、と弟にウィンクして、私は長年の愛煙家を装うように堂々と、毒々しい煙を口から吐き出した。
隣にいる弟も私と同じように煙草を吸っている。
嫌煙家が増えている昨今に、姉弟で煙草を吸う様は、なかなか珍しいんじゃなかろうか。
凌介は普通だ。
同性愛者じゃないし、友達もたくさんいるし(私も少しくらいいるけれど)、容姿も悪くない。
私は同性愛者で、友達がいても心を開けなくて、これから先結婚することもできずに、親に孫を抱かせることもできずに、死んでいくのだろう。
普通であることが、羨ましくないわけない。
「私は結婚する気もないし幸せになるつもりもないけど、あんたは普通なんだからちゃんと幸せになりなさいよ」
はは、と凌介は乾いた笑みを浮かべた。
「今時、そんなラベルだけで、普通か普通じゃないかなんて決められないだろ。愉快な頭をしているもんだな」
小馬鹿にした言い方に、思わず言い返さずにはいられなかった。
「凌介に私の気持ちがわかるわけないわ」
凌介は煙草の煙をふうと吐いてから、ギロリと私の方を一瞥した。
「それこそ、姉ちゃんの思い込みだろう。俺だって、普通じゃないよ」
「どういうこと?」
これは言いたくなかったんだけど、と凌介は頭を掻きむしった。
「俺はいまだに彼女も作れたことないし、いつも遊ばれてばかりだったんだよ。全然普通じゃないよ。相手は女が好きな女だったしさ」
「どういうことよ」
「あいつは1人の女に片思いをしていたんだよ。俺なんか眼中になかった」
まさか、自分の弟が不毛な恋愛をしているだなんて思ってもみなかった。
私は聞くんじゃなかったと後悔したが、聞いてしまったからには向き合わなくちゃいけない。
その「彼女」はどんな気持ちで、付き合ってもない男の家にアルビオンの基礎化粧品を置いて行ったのだろう。
「ほら、そんな顔をするだろ。しかもその女は姉ちゃんの知ってる人だよ」
「どうしてわかるのよ。意味がわからないわ」
「話を聞いていたらすぐわかった。それだけ」
さっきから混乱してばかりだ。
思い当たる人間はいくらでもいるけれど、最近話題に上がる女性――姉弟で同じ人を好きになるなんて、漫画みたいなことがあり得るのかしら。
「ひょっとして、萌花のこと?」
「姉ちゃんみたいに女の趣味悪くないからさ」
「なぜか安心してしまったわ」
「あんな女が好きなんて、ほんと趣味悪いよなあ」
ふふ、と柔らかく笑うその横顔で、誰のことを好きでいるのか、なんとなく察してしまう。
相手の名前を口に出そうとした途端、スカートのポケットに入れていたスマホが、ばたばたと暴れだした。
萌花からの連絡かと思い、ウキウキしながらスマホのロック画面を見たが、まったく知らない番号からの着信だった。
「もしもし、どなたですか?」
「突然電話してすみません。昨日、お会いした美月です」
萌花からの着信ではないことに、気持ちが萎えてしまった。
わざわざ、何の用で電話をかけてきたのだろう。
「美月さん、どうして私の電話番号を知っているんですか?」
「ある人から聞きました。昨日は突っぱねてしまいましたが、先輩の彼女だと思うと気になってしまって。あなたとは1度、お話をしてみたかったんです」
美月さん、と言った途端凌介の表情が強張った。
予想通りだった。"ある人"も陵介のことだろう。西園寺さんならば、"ある人"なんてぼかし方もしないだろう。
だとしたら、美月さんは本当に萌花に片思いをしているのだ。信じたくはないけれど。
「昨日はむきになっていましたが、やっぱり先輩の彼女さんに向き合わなくちゃと思ったんです。電話ではなんですから、明日直接、お話をさせてください」
私も彼女と話をしてみたかったから、むしろ好都合だ。
ただ、ふと思い浮かんだのは、明日は隣の市に出張しなければならないのだ。確実に残業になる。ならば、今日しかないだろう。
「明日用事があるので、できれば今日お話しできませんか」
電話先の彼女は息を呑んだ。
「わかりました。今どこにいますか?」
そして、私と美月さんはファミレスで話をすることになった。
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