第37話 つまらない人生【萌花視点】
今から告白をしようとしているのだと察してしまう瞬間がある。
あの生温くてじめっとした空気と、ヒリヒリとした緊張感が嫌でも伝わってくる、あの感じ。
目の前にいる相手が、自分との関係を変えようとしている。その必死さが嫌でも伝わってくる。
あたしは「一世一代の告白」なんてする人の気持ちが理解できない。
徐々に関係性が変わるのは仕方ない。
でもさ、わざわざ、友達関係や職場仲間という関係を壊してまで、恋人同士になりたいという気持ちが理解できないんだよ。
過去の恋愛を振り返ってみても、自分から「一世一代の告白」なんて馬鹿げたことをしたことはなかった。
相手から告白されて付き合うか、いい雰囲気になってホテルに行って「わたし達、付き合ってるの?」と迫られて「あー、そうかもね」と適当に答える。そのどちらか。
別に誰かと親密になりたくないわけじゃない。付き合いたくないわけでもない。
ただ、折角いい友達だったのにな、と惜しくなるだけ。多分それだけ。
屋台のカウンターテーブルは、あたしたちだけ切り取られたんじゃないかってほど、空気が他と違って淀んでいるように感じた。
隣にいる美月は「たはは」と眉を八の字にして笑い、ハイボールを一気に飲み干して、垂れている艶やかな黒髪を耳にかける。
「先輩~? 真に受けてるんですかあ? 好きって言われてドキドキしちゃいました?」
このこの、とあたしの肩を小突いてから「お代わり頼んじゃいますねっ!」と軽やかに注文した。あたしのハイボールは半分以上残っている。
「飲むペース遅いじゃないですかあ。もっと飲んでくださいよお」
昔から、美月は無理をしているときや焦っているときに、口数が多くなる。その癖は何も変わってないんだな。
「無理しなくていいよ」
「なあに言ってるんですかっ! 本当に先輩のことが好きなわけないでしょう? 別れてから何年経ったと思うんですか、自惚れないでくださいよっ」
付き合っていた時に美月が
『冗談で好きとかいう人間は死ねばいいんです。あんなの、感情の押しつけでしかないですよ。冗談だって言えば告白したほうが安心するかもしれませんが、されたほうはどうやって「好き」を処理すればいいんですか?』
と誰かに告白された後に怒っていた。
あたしはあの時、どんな受け応えをしたんだっけ。
「そうだね」と同調したような気がするし、「それはかわいそうじゃない?」と相手を庇ったような覚えもある。
おでん屋のおばさんが、カウンターから「はいよ」とハイボールを渡してくれた。
それをすぐさま美月が喉を鳴らしながら、半分も飲んでしまった。
「飲みすぎないでよ。美月は悪酔いするんだからさ」
「だいじょうぶれす! 先輩に心配される筋合いはありましぇんっ」
「すでに呂律が回ってないじゃんか……」
そんなことないれすよお! と強がってみる姿も、酔っぱらっているせいで普段のような力強さがない。
「美月が酔っぱらうなんてらしくないじゃんか。まだハイボール2杯しか飲んでないのに。まあ、店でお客さんに飲まされてたか……店出るよ」
美月の腕を引っ張って、無理やり店の外に出た。
「もう、まだ飲みましょうよお」
まっすぐにすら歩けていない美月は、ふにゃふにゃと笑っていた。
「酔ってるじゃんか。帰るよ」
「まだ酔ってませんよお」
ふにゃふにゃと笑いながら、もつれた足を引っかけて美月はあたしに抱き着いてきた。狭い路地の真ん中で、彼女の冷えた指が、あたしの指に絡みついた。
ぎゅうっと指を締め付けるように握る。
俯いていた美月は、ゆっくりと顔を上げた。大きな瞳の中に焦っている顔のあたしが映り込んでいる。
「タクシー拾って帰らないと危ないよ」
「えへへ、心配してくれるんですかあ?」
「そりゃ、心配だよ。何かあったらあたしの責任になるじゃんか」
「だいじょーぶです。私はこう見えてしっかりしてるんですからっ」
「しっかりしている人間には見えないけどなあ」
身体にしがみついている美月を剥がして、「ダメだよ」と言った。あたしには彼女がいるんだからさ、と。
むう、と頬を可愛らしく膨らませてから、美月はぶんぶんと首を横に振った。
「どうして先輩は変わってしまったんですか? 前は、彼女がいるからなんて、つまんないこと言う人じゃなかったのに」
思えばあたしもなぜ変わったのかわからなかった。
美鈴のことが好きだから? それとも年を取って落ち着いたから?
どちらにしても、過去のあたしが聞いたら鼻で笑うような理由だよ。落ちぶれたもんだね、と笑われてしまうかもしれない。
笑われてしまっても、それでいいと思う。
「うん。あの頃と違って、あたしはつまらない大人になったんだろうね」
遊びまわっても何も得られなかった。
しいて言うなら、飲みの席での話のネタと、女を口説き落とす方法と、あと経験人数?
人生において、これらはあってもなくても同じで、本当に大事なものはその中にはなかった。
じゃあ、本当に大事なものを今見つけているのか? と聞かれると首をかしげるほかないんだけど、
そもそも、あたしは何を欲しているんだろう。
美月は肩を落とした。
「先輩のことなんて嫌いですよ」
じゃあ、また、とひらひらと手を振ってネオンの街に消えてしまった。
さっきまで泥酔していた姿はどこへ行ったのか疑うほど、まっすぐに歩いていた。
とぼとぼと1人で歓楽街を歩きながら、アルコールで馬鹿になった頭でこれまでの数年のことを思い出していた。
こんな性質の自分だから、記憶なんて断片的であやふやだけど、毎日は楽しかったんだよ。
好きに働いて、可愛い女と一緒に暮らして、昼夜逆転の生活をして。
でも、あたしの人生はこれでよいのかな?
現実から目をそらして、未来の話に蓋をして、狂ったふりをして日々を過ごしているのに、どんどんつまらない人間になってる。
この生活であたしは何を得ようとしていたんだっけ。
深夜のコンビニに立ち寄って、缶コーヒーだけを買って店の前で飲む。
こんな日には煙草が吸いたくなるけど、吸っていることがばれたら、また美鈴に文句を言われてしまうからやめた。
春の澄んだ空気の朝は心地がいい。
少し肌寒いくらいが、缶コーヒーも美味しいってもんだよね。
あたしは過ごしやすいから春が好きだ。夏や冬は好きじゃない。秋はこれから冬の気配を感じるから嫌いだ。
美鈴は花粉症持ちだから、春と秋が嫌いだと言っていた。
こう考えるとあたしと美鈴はつくづく合わない2人なんだな。
相性もけして良いとは言えないもん。
お互い、探せばもっと良い人がいるんだろうに、どうして一緒にいるんだろう。
コートのポケットの中にしまい込んでいたスマホが、ぶるぶると震えた。
美月からだ。彼女からの着信なんて、何年振りだっけ。
「もしもし」
「家に到着しました」
いつものきゃぴきゃぴ声じゃなくて、やけに低くて重苦しい声だった。
「ご連絡どーも。あたしもすぐ家だよ」
「言い忘れたことがあったんです」
「何?」
「2年前の7月のこと、覚えてますか? 先輩が連絡をくれたときのこと」
2年前の7月といえば、ちょうど大雨が降っていたときのことか。帰宅難民たちが、バーに流れ込んで大変だった。
美月は、はあ、とため息未満の息を吐いた。
「どーせ、覚えてませんよね。あの時、先輩がLINEしてくれたじゃないですか。
私は男の車に乗っていて、横は川のどぶ水が氾濫して、遠くでは車が流されて行って、隣にいるのは好きでもないおっさんだったんです。
死んだほうがましって状況で、先輩が「大丈夫?」ってLINEしてくれたんですよ。私は大丈夫じゃないのに、「大丈夫です。今家です」と返信したら「よかった。じゃあ、今度また飲みにでも行こうよ」と先輩が言ってくれた。
たったそれだけなんですけど、あの「大丈夫?」がなかったら、私、今生きてなかったかもしれないって思うんですよ。なんとなく。
あなたは覚えてないでしょうけど。覚えてなくていいんですけど。ただ、それだけが言いたかった。自己満足なんですけど」
どう答えるのが正解なのか、あたしにはわからない。
思えば、あたしの人生はわからないことだらけだよ。わからなくて、いつも考えているふりをして、何も考えずに日々を生きている。
こんな話を聞いて気持ちが揺れ動くような人間なら、あの頃、もっと上手くやれていたのかもしれない。
「ありがとう」
ぼんやりとした頭では一言発するので精一杯だった。
「——そういうところ、何にも変わってませんね。じゃあ、おやすみなさい」
そういうところ、がどういうところなのか、聞く前に電話を切られてしまった。
帰宅した時間は、もう深夜のショッピング番組が終わって朝の情報番組が始まる時間になってしまっていた。
達也さん基準でいうなら、外がまだ明るくないからセーフなのかもしれないけど、夏ならすでにアウトだよ。
さすがに明け方なこともあり、美鈴はすでに眠ってしまっている。
ダブルベッドで布団にくるまって寝ている姿は、いつもの口煩さが想像できないほど穏やかに見えた。猫みたいな寝顔だなとしみじみ思う。
小さく唸りながら寝返りを打つ姿も、もう何度見たことだろう。何度見ても飽きないんだけどさ。それくらい美鈴が眠っている姿は好きなんだよね。
しみじみと寝顔を眺めながら着替えていると、ベッド脇の美鈴のスマホが光った。
迷惑メールの通知だった。
こう見えて美鈴は面倒くさがりだから、迷惑メールを拒否する設定もしないんだよね。今日は休日だからいいけど、仕事の日の朝に迷惑メールの通知で起こされたらどうするんだろう。
眩い光を発しているスマホ画面に緑のアイコンが並んでいるのが見えた。
目をずっと細めて確認すると「大阪」と2文字見えた。その後に続くのは「物件いくらが相場なんだ?」それから「いつになりそうなんだ?」
視界が揺らいだのは、ショックだからか、それとも明け方で眠たいからなのか。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、いつもより眩しくてたまらなかった。
こんなちっぽけなことで、心が動くなんて――本当に、つまらない人間になってしまったんだね。
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