第38話 あなたとは共犯者になれないけど【美月視点】

 恋愛なんて愚か者がするものだと思ったのは、17の夏でした。


 それは初めての行為の後で、小麦色の肌が汚いクラスメイトの男の臭いが染み込んだベッドの上で、私は蹲っていました。

 下腹部の鈍痛で起き上がれない私を放置して、スマホを触っている彼の横顔はいまだに忘れられません。


 彼に恋をしていたわけではないけれど、雑な扱いを受けると、悔しくてたまりませんでした。

 好きでもないのに無理をして付き合った相手だから余計にです。


 虚しくてその場で腹痛で死ねたら良いのにと思いました。そうでもしないと、彼は私が傷ついた気持ちを理解することはできないと、なんとなく確信していました。


 初めての行為がまともじゃないと人格が歪む、と男友達は自慢げに話していました。


 確かに、私はあんな色黒で汗臭いどうしようもない男に処女を捧げてしまってから、ビール腹のおじさんにお金をもらいながらデートを繰り返したり、たまにセックスをするようになりました。


 それが虚しいとも思いません。私は壊れているんでしょう。


 こんな風に歪んでいるから、本当に好きなあの人にも振り向いてもらえないんでしょうね。



「俺、煙草買ってくるわ」


 深夜に閉め作業をしていると、達也さんがそう言ってバックヤードから出てきました。 

 薄暗い店内には私と、間抜け面をしたピンク頭がいます。


「じゃあついでにモンエナ買ってきてくださいよ~!」

「了解。美月は何か必要なものあるか?」

「私——ラキストをお願いします!」


 達也さんとピンク頭は顔を見合わせました。

「美月、煙草吸うんだ?」

「いつもは吸いませんけど、たまにはいいかなって! 先輩も一緒に吸いますかっ?」

「どうしようかな~」


 鼻の下を伸ばすといつも以上に頭が悪く見えてしまいます。

 愚か者の代表のようなその女は、「煙草吸いたいな〜」とぶつぶつ呟きながらテーブルを拭いています。


「じゃあ、店番頼むわ」


 達也さんが出ていくと、店はしんと静まり返ってしまいました。


 いつもなら軽口を叩き合いながら、冗談でも交わすのでしょうが、今日はそんな雰囲気になりませんでした。

 夕方に顔を合わせてからそうでした。今日の先輩はおかしい。


 原因は明白です。


 先週の土曜日に私が先輩のことを好きだなんて言ったから、オドオドしているに違いありません。


 あの時はひどく泥酔していたのか、記憶が薄ぼんやりとしかないんです。

 問題なく帰宅することはできていましたが、飲んでいるときの店内での記憶がほぼないんです。


 あるのは「好きです」と告白をした記憶だけ。


 お酒を酔って勢い余って好きだと告白することくらい、大人になればいくらでもあるでしょう? 


 何気まずそうに目を泳がせているんですか。高校生じゃないんですよ。

 カウンターを拭いている私に、先輩は目配せをしました。


「あのさ、遠距離恋愛ってどう思う?」

「は?」


 つい本音が出てしまいました。いけませんね。

 私は告白のことを聞かれると身構えていたというのに、遠距離恋愛ってどう思う? はあ? どういうことですか?


 いつもみたいにおちょくってしまいたい気持ちは山々ですが、先輩は思いつめたような表情をしていました。


「先輩には難しいんじゃないですか?」

「だよねえ。あたしもそう思うんだよ」


 ますますわけがわかりません。

 どうして私は、交際相手との関係が危ぶまれていることを話されなくちゃいけないんでしょう? 

 遠回しなアプローチですか?


 私はカウンターを拭いた雑巾を洗いながら、やけにため息をつく先輩の横顔を一瞥しました。


「先輩は付き合う相手なんて誰でもいいんでしょう? 告白されたから、セックスの相性が良かったから、そんなくだらない理由でしか付き合ったことがない人間が、気持ちの繋がりが何より大切な遠距離恋愛なんてできませんよ」


 先輩を責めるような言葉を吐きながら、どうして私は好きな相手を傷つけることしかできないんだろう、と悲しくなります。


 もっと捻くれてない人間なら、私はもう少し上手く生きることができたのでしょうか。


「あたしもそう思う。ほかの女の子に言い寄られて断ることができるのかな」

「それ、遠回しに誘ってますか?」


 ぶふっと先輩は噴き出して、顔を真っ赤にしてしまいました。


「そんなつもりじゃないよ! 美月に話すべき内容じゃなかったよね。ごめん」

「先輩のそのデリカシーのなさは才能だと思いますよ」

「ええ? あたしデリカシーあるよ。酷いな~」


 自覚して言っているのか、天然なのか。どちらにせよ、性質が悪いことに変わりはありませんね。

 テーブルを拭きながら先輩は、急に固まって、すぐ私をじっと見据えました。


「美月は、あたしのどこが良かったわけ?」

「はあ? デリカシーある人の発言ではないですね」


 あら、そう? とはにかむ姿には、悪意を一切感じません。

 強いて言うならば、先輩のこういうところが憎み切れないんでしょう。まあ、むかむかしてたまらないので、絶対言いませんが。


「先輩みたいなしょーもない人間の良いところなんて、何一つありませんよ」

「しょーもない人間を好きになるなんて変わってるなあ」


 今ここで、首根っこを掴んで引きずり回してやりましょうか。


「酔っぱらっているときの言葉なんて、全部嘘っぱちですよ。あの時は頭がおかしくなっていたんですよ。寂しかったんでしょう」

「ふうん。そっか」


「ただいまあ」と、達也さんが帰ってきてくれたおかげで、会話は終わりました。



 締め作業を終えて、まだ気温が上がり切ってない春の夜に2人で歩いていました。

 帰り道が途中まで一緒だから、と嘘をつくと、先輩は「じゃあ途中まで帰ろうか」と能天気に笑ってくれました。

 憎たらしい笑顔に胸が苦しくなります。


 ただでさえ馬鹿そうな顔をしているのに、髪の毛までピンクにして――出会った頃は茶髪でした。あの頃の先輩の方が美人だったのに。好きだったのに。


 並んで歩きながら、表に灰皿が置いてあるコンビニを通り過ぎようとして、「ね。一服しません?」と誘いました。

 どうせ、断られると予想していたら、意外と「いいね」と乗っかってくれて、嬉しい気持ちが零れそうになるのを、唇を噛んで止めました。


 私と先輩は、灰皿を間に挟んで立ちました。100円ライターで先端に火をつけて、2人で白い煙を吐きます。

 つい、先輩がいる右側を一瞥してしまいました。

 先輩が煙草を吸っている姿がたまらなく好きなんです。

 きれいな横顔がいつもよりきれいに見える気がします。先輩の長所は横顔がきれいなところだと言っても過言ではありません。高すぎない鼻と小さな唇のバランスがちょうど良いんです。


 時々、私以外の人には先輩はどう映っているのだろう、と考えます。

 こんなにも素敵に見えるのだとしたら、嫉妬してしまう。あなたみたいな人に生まれたかったなあ。


 私の気持ちも知らないで、先輩は恍惚とした表情を浮かべました。


「くう~! 何か月ぶりに吸ったかな~! 煙草美味しいわ!」

「ニコチン中毒は恐ろしいですね」

「美月も吸い続けてたらこうなるんだからな!」


 月一程度の頻度でしか煙草を吸いませんが、この毒々しい煙を美味しいと感じたことは一度もありません。

 それどころか、こんな毒の何が良いのだろう? と首を傾げてしまいます。


「私は先輩と一緒に煙草を蒸してる時間が好きでしたよ」


 先輩は大きくて丸い瞳をさらにまん丸にしました。


「嫌がってたじゃんか、煙草」

「嫌でしたけど――」


 その先を言うことはできません。

 言ってしまえばこれまで虚勢を張っていた、様々なことが全て水の泡になってしまいます。


 出来るだけ、私が先輩に好意を抱いてることを知られたくはないのです。


 だって、みじめじゃないですか。


 どう見たって彼女さんのことを好いているのに、2人の間に入る隙なんてありません。

 2人のラブストーリーを邪魔している、脇役のピエロでしかないんですよ、私は。


「あたしにとっては、道連れが出来ることは良いことだからさ! 今の時代、煙草を吸う人間なんて罪人扱いだもん」


 あはは、と笑ってから指に挟んでいた煙草を再びくわえました。

 きっと能無しの先輩は何も考えずに言っているんでしょう。けれど、こんな些細な言葉ですら嬉しくなるんですよ。

 

「じゃあ、先輩と私は共犯者ですねっ!」


 言うと「そうかもしれないなあ」と言って、短くなった煙草を灰皿に押し付けました。

 私は、いつまで、適当な先輩の適当さに付き合っていられるでしょうか。



 アパートの郵便受けを見ると、げんなりします。

 そこには山ほどの封筒がぎっしりと詰められていて、中にはひとつひとつ剃刀と便箋が入っていました。

 内容なんて見なくてもわかります。


「どうして無視するんだ?」「お前にいくら金をかけたと思ってるんだ」「愛している」「好きなんだよ」「戻ってきてくれ」


 吐き気がします。

 たった数回食事に行っただけで、勘違いするなんて愚かじゃないですか?


 前に店にやってきた時は、震えてバックヤードから出られませんでした。

 幸い、私の存在はバレずに済んだようですが。

 達也さんが追い払ってくれなければ、私はどうなっていたんでしょう。


 いっそのこと、あのおじさんが私のことを殺してくれたら楽になれるのに。


 でも、あの人はそんな度胸ないでしょうね。なんとなくわかります。

 郵便受けに入れられていた封筒を両手で抱えて、階段を登ります。

 後ろに誰かがいないか、耳をすませながら。


 私はいつまで誰かに怯える毎日を過ごさなくちゃいけないんでしょう。


 こんな日々でも生きていけるのは、腹立たしいけれど、先輩のおかげかもしれませんね。

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