第56話 この恋を運命にするために【愛美視点】
誰かと一緒にいると、ときどき冷静になる瞬間がある。
特に相手が感情的になったとき、急に気持ちが萎えてしまうの。それが何度も繰り返されると、徐々に相手のことが嫌いになる。
それについて、華ちゃんには「愛美は人よりドライなんだろう」と言われたっけ。それは長所でもあり短所なのだろうね、とも。
まさに今、その状況なんだけど――早く家に帰りたい。
「ええ~渡良瀬さん、一杯目からカシオレっすか?」
酔っぱらってないくせにすでに酔っ払いの掛け声みたいな声に突っ込まれて、ため息をぐっと飲みこんだ。
別に強い酒も飲めるけど、こんな安居酒屋のまずい酒で酔っぱらいたくない。
「あ、じゃあ、生ビールで」
隣に座っている男は、にいっと満足げに口角を上げる。
「うぇーい! やっぱり1杯目は生っしょ!」
10人ほどぎっしりと詰まったテーブル席で、みんながウェイウェイと騒いでいる。わたし、笑顔でいられているかな。
これは残業だ、と自分に言い聞かせる。
賃金は発生しないし、なんならお金を支払っているけど、これは残業。そう思わないとやってられないでしょ、これ。
こんなことになったのは、うちの会社が他社と合併したせいだ。
こうなるまで合併する企業の詳細は知らなかったけど、若者ばかりのウェイウェイ連中が多い会社のようだった。わたしはただの事務員だったのに、企画部へ異動になった。
企画部ってキラキラした人たちばかりでうんざりだよ。「トレンドを知るにはSNSをするべし」とか語られてアカウントを作らされるわ、飲み会も週2は誘われるわで散々だよ。
わたしはさっさと帰宅して、さくらとアメトークでも見ながら酒を飲みたいのに。
結局ね、お酒の味は誰と飲むかで決まるんだよ。
つまらない人たちと飲む酒は美味しくないけど、好きな人と一緒に飲む酒は鬼殺しやいいともでも美味しいんだよね。わかる?
……やだな。愚痴っぽくなってる。
「何、ぼーっとしてるんすか~、渡良瀬さんって天然ちゃんなところありますよね~」
そう言いながら、1杯目生ビール男はわたしの肩を小突いた。
彼はこの飲み会前に0次会とやらに参加していたようで、すでに頬を桃色に染めている。
「そうですか? 天然なんてはじめて言われましたよ~」
笑顔、笑顔。
へらへらと笑う顔が腹正しいなあ。
「じゃあ俺だけが知ってるってことっすね。へへ」
うわ、何を勘違いしてるんだろう。
生ビール頼んだ人~、と誰かが呼びかける声に、横の男は緩んだ表情を引き締めた。わたしが手を上げる前に「こっちひとつ~」と必要以上に大きな声を上げる。
普通なら、こういうやり取りから恋のひとつやふたつはじまるのだろうな。
彼って気が利く素敵、わたしに優しいわ、から好意が生まれて、恋愛に発展していくんだよね。
あーあ。ばかばかしいな。
誰にでも気が利いたり優しい人なんて誰にだってそうだよ。わたしだってそうだもん。
相手に好きになってもらうなんて、そう難しいことじゃない。特に男女なら。
恋は錯覚だなんて、上手いことを言った人もいたものだ。
そういえば、さくらはわたしを好きになってくれたのも――……。
「またぼーっとしてますね。だめですよお~、ほら、生中どうぞ」
すっかり泡がへたった生ビールを見て、残念に思っても、極力それを表には出さないようにした。
美味しいお酒が飲みたいのになあ。
「お酒苦手なんです~」感を滲ませることにより、1次会で帰宅することに成功した。ただし、隣に座っていた1杯目生ビール男もついてきたけど。
「家の方向同じだから送っていきますよう!」
下心見え見えだけど、周りに人がいるなかで言われちゃあ断れない。
夜道を2人でふらふらと歩きながら、顔を真っ赤にした彼はコンビニに途中で寄って買ったストゼロを飲んでいた。よくそんな酒飲めるなあ、と思う。
まだほろ酔いのほうがいいのに。それかレモン堂。
さくらがレモン堂のはちみつれもんを飲みたがっていたことを思い出す。帰り道に買って帰ろう。
「渡良瀬さんは彼氏とか本当にいないんすか?」
「いませんよお~。どうしてですか?」
「だって、こんな魅力的な人に恋人がいないなんて信じられないですよ。どうせいい人いるんでしょ~?」
面倒くさいなあ。
ここで実は~と話そうものなら、グループLINEで言いふらされるんだろうし、相手のスペックや容姿を根掘り葉掘り聞かれてしまう。それは嫌すぎるなあ。
「いないですよ~。誰かと付き合いたいとか思わないんですよねえ」
「え~渡良瀬さんは若くて綺麗なんですからあ、誰かと付き合わなきゃもったいないっすよ」
もったいない、だなんてわたしは誰かの物みたい。
しいて言うならさくらの物かなあ、だけどわたしたちの関係に所有するとか、どうとかってらしくないよね。
適当な曲道で「寄る場所あるので~」と言い繕って男から逃げた。
あんな退屈な人間と一緒にいたら、ダメ人間になってしまう。
一緒にいると気持ちがどんどん萎えていくの。ずっと赤べこみたいに首を縦に振って肯定してるだけだもん。
そういえば、さくらと一緒にいて退屈だと思ったことがなかった。
あんなに素直で可愛らしい女の子と一緒にいて、退屈さを感じないわけがないよ。見ているだけで惚れ惚れしちゃうもん。あんな顔に生まれたかったなあ。
――さくらにとってわたしじゃなきゃダメな理由なんてあるのかな。
ただ、ちょうどいいタイミングに近くにいたのがわたしなだけじゃないの?
そう疑いたくなるほど、さくらの周りには誰もいないんだもん。
萌花さんだって、恋人がいなければ――……。
ダメダメ、こんなことを考えても無意味だよ。正解なんてないんだから。
少し寂しくなって、歩きながらさくらに通話をかけた。
「もしもし、今仕事が終わったんだけど!」さくらの声が聞きたくてたまらなかったから、わたしの声は弾んでいたと思う。
「コンビニで何か買って帰ろうかあ? ハーゲンダッツの新作出てるらしいよお」
ホワイトノイズの音しか聞こえない。
「今どこにいるの?」
やっと聞こえた声はさくらの鼻をすする音だった。泣いているのだと、すぐにわかった。
「どうしたの?」
「別にどうもしてないわ」
明らかにどうにかしている掠れた声で、さくらは言い切った。
さくらが悲しんでいるときは、わたしがやらかしたときだ。
泣かせるようなことをしたっけ? 思い当たる節がない。
しいて言うなら一昨日、さくらが隠していたプリンを食べようとしたことくらい?
「あなたには言えないわ!!」
唸り声が電話の向こうから聞こえる。放っておけるわけないじゃんか。大事な恋人が泣いているのに。
さくらの声の裏側に聞きなれたメロディが流れていた。歓楽街にある公園そばの居酒屋でいつも流れている古いJPOPだ。
ここから走れば3分で到着できるはず。
「そこで待ってて! 動いたらしばくから!」
「し、しば……」
戸惑うさくらの声を遮るように、通話を切ってわたしは走った。
繁華街の中の公園のベンチで、さくらは縮こまって座っていた。遊具が1つもない公園は薄暗く、街灯はちかちかと点滅していた。
走ってきたから、ぜえぜえと息が切れる。
わたしはいつもさくらを泣かしてばっかりだよ。
本当はさくらには笑っていてほしいのに。
できるだけ、さくらを泣かせないように傷つけないようにと心がけているつもりなのになあ。
「さくら」
呼びかけると、ベンチに座った彼女は潤んだ目をこちらに向けた。
改めて、そこにさくらがいることに安堵した。
「よかった。待っててくれたんだねえ」
「だって、しばくって言われてしまったのよ。しばくの意味がわからなくてググってしまったわ」
いなくなっていたところで、しばきはしないけどね……。
「いいの? 愛美は残業だったんでしょう?」
ベンチの真ん中に座っていた彼女は、端に詰めながら聞いた。
そうだねえ、とつぶやきながらさくらの横に腰かける。
「残業は終わったよ~、疲れちゃった」
「なぜ疲れるのよ。いいじゃない。残業も」
「どういうこと?」
さくらは大きな目を一度見開いて、目を逸らした。いかにもおどおどとした様子で「ほ、ほら、なんとなくねっ」とやけに大きな声を出す。
ああ、そういうことねえ。
付き合ってきて、最近わかったことだけど、さくらは自己肯定感が低い。
それの一因はわたしでもあるんだろうけど、たぶん、元々のさくらの性格だろうなあ。
こんな美少女なのに、自分に自信がないなんて信じられないけどねえ。
「わたしが企画部に配属されたのは話したと思うんだけど、そこの人間がウェイ系でねえ。頻繁に飲み会に誘われるんだよねえ。だから、業務外だけど実質残業。最悪でしょ?」
いつもなら、もう少し泳がせてアカウントに鍵でもかけるところだけど、今日はやめておこう。
自分の恋人が自信を失っていく様は、これ以上見たくないよ。
さくらは目をぱちぱちと瞬きさせて、「そうなの?」と小首をかしげた。口は少し緩んでいる。わかりやすい子だなあ。
「嘘を言う必要がないでしょ」
「うふふ」
さくらはその場で「えへへ」と嬉しそうな声を漏らしながら、地団駄を踏んだ。
彼女の子供のように無邪気で、素直なところが大好き。
ただ、彼女の自己肯定感の低さは困りものだ。
この様子じゃ、知らないうちにわたしのスマホの中を見ていそうだよ。同僚や後輩との何気ないLINEにすらジェラシーを感じていそうだもん。
わたしはさくらの感情を見て見ぬふりをすることはできるけど、それじゃあ、さくら本人が苦しいよ。
それに、今日の飲み会の1杯目生ビール男みたいな、下心丸出し野郎に騙されたら厄介だ。
萌花さんはさくらに優しくしてくれているからいいけれど、これほど何もかもオープンじゃ、いつか痛い目を見る。
さくらみたいな素直で無邪気で自信がない女の子は、悪者の餌食になりやすいから。
これまで傷つけてしまったぶん、わたしがどうにかしたい。
恋人であるわたしが、どうにかできないのかな。
「ぼーっとしてどうしたの?」
さくらはわたしの顔を覗き込んだ。
お人形さんのように整った美しい顔は、じっとわたしのほうを向いている。
いつもは鮮やかな青い目も夜の色に染まっていた。わたしはつい、肩から垂れたさくらのブロンドヘアを撫でた。
唾をごくりと飲み込んだ。
今のわたしにとって、さくらは特別で替えの利かない恋人だよ。
だから――覚悟を決めよう。
「さくら、わたしの母親に会ってくれない?」
もう、後戻りはできない。
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