第24話 あなたはあたしの――?【萌花視点】

 目の前のはっとするほどの美人は、あたしの手を包み込んでじっと目を凝視した。

 かつてなら、ここで美月のことを押し倒してしまうだろうな。浮気を平気でしていたあたしなら。


「待っている人がいるから、帰らなくちゃ」

「別にその女である必要はないんじゃないですか? 終わりが見えている関係に時間と労力を費やすなんて、無駄ですよ」


 確かに。あたしと美鈴は相性が悪い。この先ずっとやっていける自信なんてない。

 凸凹がちょうどかみ合っているならいいけど、そんなわけでもない。

 いつも喧嘩をしたりすれ違ったりしてばかりだもんね。

 あたしと美鈴はいつか別れるだろうって、自分でも薄々察しているよ。


「自分でもわからないんだよ。何が特別で、何が特別じゃないのか。誰を選ぶべきかなんてさ」


 美月は完璧な白い歯をむき出しにして意地悪に笑った。


「わからないなんてその程度なんですよ。本当に大事な気持ちは自覚できるはずですよ」


 だとしたら、本当に大事な気持ちを自覚できる日なんてやってこないかもしれないな。


 時々、気持ちが高ぶっているときに「特別」だと思うことがあるけど、それが本当の気持ちなのか自信はない。

 セックス中に好きだと言ってしまうのと同じで、ただのその場のノリだとか雰囲気に流されているだけのような気もする。


 考えれば考えるほど、自分の気持ちがわからなくなるよ。

 あたしはたぶん、まっとうな人間じゃないんだろうな。


「でも、今帰らないと後悔する気がするんだよ」


 彼女は艶々のロングヘアを耳にかけた。


「今帰らなくて後悔をしたとしても、すぐ忘れちゃいますよ。先輩は、そういう人でしょう?」

「でもさ」


 言葉だけが先立ったものの、何を言うべきなのか頭に浮かばなくて口を閉ざす。


「私は先輩のダメなところも知っていますし、好きでいられますよ。その女は先輩のことを受け入れられる器があるんですか?」


 こんなことを抜け抜けと言う癖に、付き合っていた頃はぜんぜん大事にしてくれなかったじゃんか。

 そんなことを言うのは大人気ないのかな。


「その女は先輩のうわべしか知らないでしょう?」


 まだ、美鈴には心を開けていないだけだよ、と言いたいのに、言えない。

 どうしてこれほど自信がないんだろう?

 醜いあたしを知ってもなお、好きでいてくれるかもしれないじゃんか。


――本当に?


 淡い期待を抱くだけ失った時の喪失感が増すだけだよ。期待なんてしちゃダメだ。

 こんなあたしと一緒にいてくれるだけ、ありがたいと思わなくっちゃ。

 

――まだ美鈴と一緒にいたい、それだけは確かなんだよ。


「やっぱり、あたしは家に帰らなくちゃ」


 美月と美鈴を天秤にかけたなら、今は迷うことなく美鈴を選ぶよ。


 これが好きだからなのか、ただの情なのかは、わからないけど。

 目の前の美月はわざとらしいため息をついた。


「勝手にすればいいじゃないですか。早く出て行ってください。どーせ、すぐに別れるんでしょうけど」


 コートを着て、あたしは部屋を出た。

 燦々と降り注ぐ太陽光がアパートに差し込んでいる。


「あ、結局昨日こと聞き忘れてた」


 どうせまた店で会うんだから、その時に聞けばいいか。



 帰宅する前に美鈴のために期間限定のハーゲンダッツを買って帰ることにした。

 食べ物で機嫌が直るような女の子ではないけれど、ないよりはあったほうがマシだろうと思ったからさ。


 結局、帰宅時間は12時半頃になってしまっていた。

 できれば泣いたりしていなければいいなあ、と思いながらエレベーターに乗り込んで言い訳をあれこれと考えた。


 できるだけ下手に出よう。

 もうすぐバレンタインだし、クリスマスの時に買わなかった指輪を買ってもいいかもしれない。

 美鈴を安心させるために必要なことなら、なんだってするよ。


『その女は先輩のうわべしか知らないでしょう?』


 さっきの美月の言葉が脳裏に蘇ったけど、すぐにかき消した。


 エレベーターを降りて、いつも帰る自分の部屋の前に立つ。


 深呼吸をしてから、鍵を開けてドアノブをひねる。玄関で「ただいま」と声をかけても返事はない。


 かすかな音を聞き逃さないように、耳を澄ませながら部屋中を歩き回ってみるけど、誰もいない。からっぽだった。


 もしかして、と思って美鈴の手持ちカバンやスーツ、預金通帳や印鑑を探してみたけどどこにもない。

 あるのは春用コートと、歯ブラシと、この前あたしがなんとなく買ってプレゼントしたマグカップとか、そんなどうでもいいものばかりで。


 いつか、こんな日がやってくるとは薄々感づいていたけど、まさかそれが今日だとは思っていなかったんだよ。


 たった一回、その一回が美鈴にとって致命的なほどショックなことだったに違いない。


 よく「私もいつか浮気されちゃうかもね」と笑っていた。


 どんな気持ちでそれを言っていたのか、もっとちゃんと考えるべきだった。


 買っていたハーゲンダッツを冷凍庫に入れて、冷蔵庫にあった紙パックのコーヒーをコップに注いだ。


 一呼吸おいて冷静になろう、と思った。


 取り乱していても仕方ない。あたしが美鈴を大事にしなかったことが悪いんだ。

 もっと「好き」だというべきだったのかもしれない。

 気恥ずかしくて愛情表現をしていなかったのがいけなかった。


 次は失敗しないようにしよう。

 次? 

 誰かがあたしなんかのことを好きになってくれるのかな?

 あたしも、こんな気持ちになってまで、誰かと付き合いたいと思うのかな?


 これほど尽くしてくれた美鈴と上手くいかなかったあたしが?

 人として劣っているあたしが?


 ダメだ。考えるのをやめよう。


 これからのことを考えなくちゃ、まず引っ越しをしよう。この部屋は一人で住むには広すぎるもん。

 ダブルベッドだって必要ないし、広いキッチンなんてなくていい。テレビもいらない。最低限生きていけるだけの道具さえあればいい。


 頭がくらくらとする。


 ろくに眠っていないからか、美鈴に出ていかれたショックからなのかはわからない。


 ただ、夕方からあたしはまた仕事をしなくちゃいけないし、いつも通り明るく振舞わなくちゃいけないんだ。


 とりあえず、寝なくっちゃ。


 ダブルベッドに寝転がると美鈴の気配や匂いがまだ残っていて、気がおかしくなりそうだった。

 いつも欠かさず掛け布団を丁寧に畳んでいるのに、今日はぐちゃぐちゃのままだ。


『いつも萌花は布団を畳まないんだから!』


 と言って膨れる彼女の顔が懐かしい。


 もうあの顔を見ることはないのかもしれないんだ。

 嫌だなと思う。

 いなくならないでほしい、と思う。


 これは特別だから? それとも情? 


 頭がぐちゃぐちゃで何も考えられないや。

 寝室にいたくなくてリビングに戻った。またコーヒーを飲んだ。


 ふと、リビングの机の上にメモが置いてあることに気が付いた。

 それには「しばらく出ていきます」と丁寧に書かれていた。


 本当に美鈴はいなくなるんだ。


 美鈴に通話をかけたり、メッセを送っても既読すらつかない。

 多分、ブロックされているか、無視をされているんだろう。


 こんな時ですら、涙のひとつも流れない自分はおかしいのかもしれないな。


 人間としての正しさ、なんてさっぱりわからないけど、美鈴の選択は普通の人間として正しい選択なんだろうな、とは思う。


 考えても仕方がない。


 今は寝なくっちゃ。今日の生活のために。

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