第25話 あなたに出会わなければ【美鈴視点】
1LDKの部屋に私が持ち込んだ荷物が散乱している。
コートは床に投げっぱなしだし、ボストンバッグはチャックを開けたままで、財布も出しっぱなし。
私らしくない。いつもならすぐさま片付けるのに。
そんな気力も今は湧かないのだ。
ただ考えていることはひとつ、萌花のことだけ。
彼女のことを考えれば考えるほど、涙が溢れて止まらなくなる。みっともない。こんなことで泣くだなんて。
さっきから私はずーっとソファの端で体育座りをしている。
なぜだと思う?
萌花のことで落ち込んでいるから、ではないの。この部屋の主がさっきからやけに不機嫌で居心地が悪いせい、
「そろそろ、泣くのやめたらどうなんだよ」
そこに座っている男――私の弟の凌介は吐き捨てるようにつぶやいた。
「好きで泣いているわけじゃないわ。凌介はいつもそうよね。人の心がわからないの?」
「よく居座らせてもらってる立場で言えるよな。別に好きにしろよ」
一服してくるわ、と凌介は立ち上がってベランダへ出て行った。
凌介は今現在は一人暮らしをしている大学生だ。こんな言いぐさだけれど、心根は優しい男の子なのよ。
いまだにLINEでやり取りをしているし、ゲームを一緒にプレイする程度には仲が良いと自負している。
でも、まさか転がり込むことを許してくれるとは思っていなかった。
萌花と暮らしているあの家を、とにかく出ていきたくて仕方なくて、でもあてなんてなかったから凌介に電話したのだ。
そうしたら2つ返事で「いいよ。うち今誰もいないからさ」と言ってくれた。
私もなんとなく気晴らしになるかもしれないと思って、ベランダに出た。煙草を吸っている凌介が眉をしかめた。
「姉ちゃん煙草吸わないだろ。部屋にいりゃいいのに」
隣に立っていると煙草の煙が顔に当たって、つい咳込みそうになる。
それを見た凌介はにやついて「ばかじゃねえの」とつぶやいた。
「お姉ちゃんだって、煙草吸えるもの! 1本ちょうだい」
「いやだよ。今1箱いくらすると思ってるわけ? どーせ、吸ったところで美味しさなんてわかんねえよ」
「決めつけないでよ。吸ってみなくちゃ、わからないじゃないの」
今、とてもむしゃくしゃしているんだと思うわ。
じゃなきゃ、煙草なんて吸おうと思わない。
――こんな時ですら、萌花のことばかりを考えてしまっているんだから、私はひどい愚か者ね。
凌介は「しゃーねえな」とつぶやいて、私にラッキーストライクを一本だけくれた。
「姉ちゃん、煙草を吸うのは初めてだっけ」
「まあ、そうね。煙を吸って吐けばいいんでしょう? それくらいはわかるわよ」
「間違ってないけどさ……あんまり深く煙を吸いこむなよ」
煙草をくわえて、ライターで火をつけようとした。風が吹いているせいか全然火がつかない。
まるで誰かにあざ笑われているようだ。
好きでもない吸いたくもない煙草を、萌花がかつて吸っていたからって吸おうとするなんて、ばかみたいだわ。
「やっぱり姉ちゃんは煙草なんて吸うべきじゃないんだって」
くわえていた煙草は凌介に奪われた。
「なんで女って、すぐ人の煙草を吸おうとするんだろうな」
風呂上がりにリビングでテレビをつけようとしていたときに、ふと凌介は言った。
彼はソファにもたれて、ぼんやりと目を伏せている。
さっきのベランダでのやり取りを根に持たれているのだろうか?
煙草を1本もらおうとしたから……? そんなことで嫌味を言うほど、凌介は心の狭い人間じゃなかったはずだけど。
「自分で買うほど吸いたいわけじゃないんでしょ。私だってそうだわ」
「ふうん」
「あと、その人の吸っている煙草がどんな味なのか気になるのよ」
さっきまで目を合わせなかった凌介が、顔を上げた。一重の目のせいで、彼が今何を考えているのかわからない。
萌花のような大きな目なら、感情を読み取ることも容易なのに。
「私の恋人も前に煙草を吸っていたわ。今は禁煙しているけど、たまに吸いたそうにしているのよね。そんなにいいものなの?」
「ぜんぜん。煙草なんて吸うやつはバカだよ。高いし煙たがれるし、ろくなことがない」
「じゃあどうして吸うのよ」
凌介は私から目をそらして立ち上がった。
すたすたとキッチンへ向かい、冷蔵庫を見てすぐに閉じた。
「煙草を吸うのがバカなら、はじめから吸わなければいいでしょう? 誰かに強要されるものでもないじゃないの」
「姉ちゃんだって、自分から誰かを好きになっておきながら、家を飛び出してくるくらいに傷ついてるだろ。同じだよ。恋愛するやつはバカだって言ったって、好きになったらどうしようもないだろ」
「恋愛と煙草を一緒にしないでよ」
なんとなく、いつも陽気な話ばかりをしているときの凌介とは違うということがわかった。
さっきシャワーを浴びているときに、浴室にあった女性用のシャンプーとコンディショナーをふと思い出す。
それから、洗面所に置いてあった、歯ブラシと化粧水と乳液。
凌介は冷凍庫からパルムを2人分取り出して、1つを私に差し出してから再びソファにもたれかかった。パルムを口に運ぶ。ひんやりとしていておいしい。
そりゃ、私だって好きになる相手くらい選びたかった。
もっとまともな――たとえば同じ会社の同僚だとか、大学時代の友人だとか、そういうありふれた女性なんてごまんといるはずで。
私のことを好いてくれる相手だって、いくらでもいるはずで。
そんな普通な人たちと普通に愛を育めたらどれだけ幸せだっただろうか?
「俺はもう女なんてこりごりだよ。面倒くさいことこの上ない。付き合い続けるメリットなんてあるか? 傷つくばっかりで、消耗するだけじゃねえか」
凌介が言うことも一理ある。
今の私は萌花と付き合うことに軽くうんざりしているし、これ以上の仕打ちがあったなら「傷つくばっかりで」「消耗するだけ」と思うかもしれないわ。
「その恋をしているときに、1度も幸せな瞬間は訪れなかったの? この人と出会えてよかったと思うことはなかったの?」
うんざりしたような表情で、私を一瞥した。
「もう覚えてないな。そんなくだらない瞬間があったとして、それ以上に酷い仕打ちを受けりゃ、きれいな思い出もすべて嫌な思い出にしかならないだろ。相手のことを信用していればしているほど、裏切られたときのショックも大きいし」
「裏切られたの?」
むすっと膨れてから立ち上がった。「姉ちゃんには知らなくていい話だよ」
そう言い捨ててから、凌介は「シャワー浴びてくるわ」と洗面所へ消えた。
私は萌花と出会わなければよかった、なんて1度も考えたことがない。
そりゃあ、もっとまともな女の子と恋愛できたらなあ……と考えることくらいはあるけれど、それはただのもしも話だわ。
萌花に出会わなかった人生があったとして、それは多分、味気なくて、灰色の寂しいものに違いないわ。
なんだなんだで、私は萌花と一緒にいると楽しいし、満たされるのよね。
悲しいことや寂しいことも多いけれど、それ以上に楽しいことが多いからそばにいられるの。
この日常が終わってしまうことを考えられるだけで……。
――ブーブーブーブー……
ソファに置いていたスマホのバイブがうるさく鳴り始めた。画面には知らない電話番号が表示されている。
いつもなら無視を決め込むような電話なのに、今日は出ないといけないような気がしたのだ。
「もしもし」
「黒川美鈴さんのの携帯で間違いないですよね?」
どこかで聞いたことがある声だった。
キンッと耳に突き刺すような甲高い大きな声。
「萌花のことなんですけど、今、時間大丈夫かしら?」
「……もちろん」
今、この声の主が誰かを思い出した。
彼女は私たちの手前の部屋に住んでいる住人で萌花の友達――西園寺さくらだ。
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