第48話 逃げる【萌花視点】


――あたしは何のために生きてるんだろう。


 頭に浮かんだ感情を、くだらないと切り捨ててから酒を煽る。


 あたしの人生はそれの繰り返しだ。

 嫌なことがあっても、酒を飲んだり、行きつけのバーで誰かとウェーイとはしゃぐことで、考えたくないことから目を逸らそうとしてきた。


 自分が女を恋愛対象として見ていることだって、一切負い目を感じていないわけじゃないし、家族と疎遠なことや、将来どうするかってことも、きちんと考えなくちゃいけないんだけど。


「お姉ちゃん、また酒飲んでる〜」


 達也さんちのリビングで、ガキがあたしのことを指差してきゃっきゃと笑った。


「大人なんだから、酒くらい飲むわ」

「おさけはよくないってママがいってた」

「……元キャバ嬢がよく言うわ」

「きゃば?」

「知らなくていいことだよ」


 あたしは子供が嫌いだ。

 どうして今、こんなに煩わしいガキを相手にしているんだろう。

――こんな目に遭っているのは、全部美鈴のせいだ。



 美鈴と一週間別れると話をしてから、あたしはさくっと荷造りをして家を出たけど、頭の中はぐっちゃぐちゃだった。


 まず、どこへ転がり込むべきかを考えた。

 一週間別れるなんて提案をしたことに後悔をしても、今更遅い。


 他の女の家に転がり込むわけにもいかないし、ホテルに泊まるほどお金もないし。


 だとしたら、やっぱり誰かの家に転がり込む?

 でも、2人きりになったら、身体を重ねるくらいはするだろうなあ。

 タダで住まわせてもらってたら、断れないじゃん?


 結局、達也さんに頭を下げるしかないのか。

 達也さんの奥さんはあたしの知り合いだし、育児も最近落ち着いてきたと話を聞いていた。

 昼間に子供の世話をすることを交換条件にすればいけるんじゃない? ウィンウィンじゃん?


「嫌だよ」


 こんな時間に電話かと思ったら、そんなくだらねえことかよ、とぶつぶつと悪態をつく声がスピーカーから伝わってくる。


「そ、そこをなんとか」

「ダメに決まってんだろ。お前なら転がり込む女の家くらいあるだろうが。俺に頼ってくんな」


 いつもより心なしか口調が厳しい。

 ただでさえ心が弱っているときに叱責されると、気持ちがバキバキに折れちゃいそうになるよ……マジぴえんだわ。


「別に女の部屋に転がりこめなくても、ビジホなんて腐るほどあるじゃねえか」

「お金なくて……」

「はあ」


 そう聞く達也さんにこれまでの経緯を説明すると、目が覚めてきたのか、それとも事態を把握して同情してくれたのか、どこかしおらしくなった。


「今回はお前も真剣なんだな」

「あたしは常に真剣ですよ! みんな愛してました!!」


 嘘だけど。


「はあ。まあ、3日くらいならいいぞ。静香もお前とは顔見知りだし……家事くらいはしろよ」

「あざっす!」


 こうして、あたしは達也さんの家に転がり込むことになったのだ。



 人の家は居心地が悪い。

 そりゃあ、自分の家じゃないんだから、当たり前なんだけどさ。

 静香さんに気を使ったりクソガキの子守をすることで、これほど疲弊するとは思わなかった。


 あたしはガキのことなんて嫌いなのに、ガキはあたしについて回る。

 何故かガキに気に入られたようだ。あたしは大嫌いなのに、不思議でたまらないよ。

 静香さんが外に買い出しをしている間、あたしとガキは2人きりだった。


「ママはー?」


 さっき「買い物に行ってくるね〜」と言ってへらへらと出て行ったのを見なかったの? 3歩歩いたら記憶なくすの?

 くりくりとしたデカい黒目が、じーっとあたしを凝視している。この目は静香さんにそっくりだなあ。


「ママはもう帰ってこないよ」


 意地悪で嘘を言うと、「なんでーなんでー」とあたしの服の裾を引っ張りながら叫ぶ。秒で嘘をついたことに後悔。

 子供はどうしてすぐ喚き散らすんだろう。理解に苦しむんだけど。


「帰ってくるから黙ってよ! アンパンマン見よう」


 ガキは瞬時に笑顔になった。 

 ここに来て、ガキはアンパンマンを見せていたらご機嫌になることを学んだよ。

 子供がアンパンマンを好きなことくらいは知っているけど、これほど好きだとは知らなかった。


 あたしだってアンパンマンが嫌いなわけじゃないんだけどさあ、あんな自己犠牲の塊の丸い化け物より、メロンパンナちゃんのほうが好きなんだよね。

 あ、その理屈で言うとメロンパンナちゃんもまん丸の化け物になっちゃうな。

 

 アンパンマンを一緒にぼーっと見ていると、静香さんが買い物から帰宅してきた。


 静香さん――マスターの奥さんだ。マスターと付き合う前から、あたしと静香さんは顔見知りだった。元キャバ嬢なこともあって、お互いの仕事終わりに飲みに出かけることもあったほど。


 そうやって2人でふらふらと飲み歩いている時に出会ったのが、マスターだった、というわけ。


 さすがに結婚してからは昼職についたらしく、お互い連絡を取ることもなくなっちゃったんだけどさ。

 キャバ嬢の頃から伸ばしている髪の毛は健在で、長い茶髪を翻しながら冷蔵庫に食材を収めていく。


「結衣、ぐずらなかった?」

「んー、問題ないよ。アンパンマン見せたらすぐご機嫌になるから助かったわ」

「あはは。チビはみんなアンパンマンが好きなんだよねえ。不思議だよね」


 ブロッコリーを野菜室に仕舞い込んで、静香は買い物袋を折りたたみ始めた。


 あの頃のばかをやっていた頃の静香が、今の静香を見たらなんていうだろう。


 あの頃のキラキラしていた彼女なら、うげっと口を歪めただろうな。たった5円のレジ袋をケチって買い物袋を持ち歩くような女になるとは思わないよね。バーに行くたびにマスターに酒を奢りたがっていた彼女がさ。


「あたしが面倒見るんだから息抜きすれば良かったのに」


 ソファに座り込んでいるあたしに、静香は近寄って「だめだよ」と子供をたしなめるような口ぶりで言った。


「萌花には甘えられないよ」

「何言ったんだよ〜あたしこそ甘えてる身なんだからさあ、子供の面倒くらいは見るよ」

「そう? じゃあ明日は甘えようかな」


 前は一緒に遊んだこともあった相手なのに、どこかよそよそしさを感じる。一定の距離を置かれているような――そりゃ、しばらく一緒に遊んでなかったんだから無理はないんだけどさ。


「あ、結衣寝ちゃってるね」


 ガキはアンパンマンを見ながら、カーペットに赤い頬をくっつけて眠っていた。手に持っているアンパンマンのぬいぐるみを大事そうに抱えている。

 静香はガキを抱き上げて、ソファに寝かせた。あたしたちはガキに追いやられてカーペットに座ることになった。


「萌花は最近どう? 元気にやってる?」


 こげ茶の長い髪を耳にかけて、小首を傾げた。


「ぼちぼちかな。元気にはやってるけど、彼女とはトラブってるよ」

「いつもトラブってるじゃん。いい加減落ち着きなよ〜」

「落ち着く秘訣を先輩に教えていただきたいね」

「秘訣ねえ、私もなんで落ち着いたのかわかんないんだよ。いつの間にか達也と結婚して、いつの間にか子供ができちゃった」


 既婚者はよくこんな口ぶりで話をするけれど、いつの間にか子供ができるなんて信じられないよ。

 ひょっとしたら、コウノトリさんは実在するのかもしれない。


「迷いはなかったの?」

「ないわけないじゃん? ずっと忘れられない人もいたんだよ。本当に達也と結婚していいのかなーって悩んだよ? あ、これ達也には秘密ね?」


 当たり前じゃん、とお互いケラケラと笑いながら相槌をうつ。


「でも、ずっと好きな相手は美化されているだけだろうなって思ったんだよね。美化されている好きな人よりも、目の前で支えようとしてくれている達也のほうを大事にするべきでしょ?」


 したり顔でありふれた言葉を言う彼女が、遠くの別の国の人かのように思えた。あたしの中の彼女は、やんちゃで人懐っこく笑う普通じゃない女の子だったんだけどなあ。

 子供を産んだら、人は変わっちゃうのかな。


「そうかあ」

 


 あたしはここにはいられないと思った。

 理由は知らないけど、何故かあたしだけ宙に浮いてるような気がした。みんな池に足をつけているのに、あたしだけ、それに馴染めない。

 たぶん、あたしがここに居続けたら、劣等感でおかしくなってしまう。


 ちょうど達也さんが仕事で、あたしが休みの日だったから、静香とガキが寝ている夜の間に家を出た。


 これから、どこへ行こう。



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