第64話 大事なひと【さくら視点】

「大変なことになっちゃったね」


 愛美のお母さんに会う前に彼女はそうつぶやいたことを、ふと思い出す。

 確かに、今は大変な状態だ。ただ、けして嫌じゃなかった。

 いまだに現実だと思えないけれど。

 

 私たちはもう、付き合う前の2人じゃない。



 深夜のファミレスはろくに客がいなかった。ガラガラの店内を徘徊する店員だけがそこにいて、私たちを迎え入れてくれた。

 案内された四人掛けの席に座り、目の前にいる愛美の母親と愛美の2人を見据えた。

 

 ひどく、緊張をしていた。


 両手ががくがくと震えていて、それを見られないようにと振舞うことで精いっぱいだわ。

 愛美のお母さんにはしっかりした人だと思われたいもの。

 この人になら娘を預けても大丈夫だと、安心してもらいたいのよ。


 愛美のお母さんは上品なたたずまいで、私とは裏腹に緊張している様子は皆無だった。

 肌も愛美の母親の歳の女性と比較すると、シミや皺が少なくきれいで、きっと愛美と同じように美意識が高い人なのだろうと思った。

 愛美が歳を取ったら、この女性のようになるのかもしれないな、とも。


「ふふ、緊張しなくても良いのよ。厳しいことを言うつもりはないんだから」


 慈愛に満ちた目を向けられて、途端に恥ずかしくなってしまった。

 しっかりした人らしい振る舞いをしようと意識しても、結局見透かされてしまうのね。

 そわそわとしきりに目線を動かす愛美は、「ママ」と声をかける。


「今、わたしには彼はいないの。彼女――西園寺さくらさんと付き合っているの」


 重苦しい沈黙が流れた。

 そのうちにけだるげなファミレス店員がやってきて、注文を聞かれ、私たちはドリンクバーだけを頼んだ。


 愛美のお母さんが口を開く。


「愛美は彼女のことをどう思っているの? 西園寺さんと一緒にいて、幸せになれると思っているの?」


 むっと口を歪めてから「当たり前じゃん」と大きな声で言い放つ。


「わたしはさくらと一緒にいると幸せだよ。そりゃ、不安になることも多いけど、それは好きだからだもん。男がとか女とか関係ないよ。さくらとは結婚はできないけど、今のわたしにとって結婚なんてどうでもよくなるほど好きな相手がさくらなんだもん。孫の顔を見せてやれなくて、ママには申し訳ないと思ってる。本当にごめんなさい」


 首を垂れる愛美に対して、お母さんはおろおろとしはじめた。


「どうして謝るのよ。そもそも愛美に孫なんて期待していないわよ~あなた、一度でも彼氏を連れてきたことがある? 三か月も交際が続かないことばかりだった子が結婚できると思っていないわよ」

 

「ママ、それ以上言うのはやめて」


「3か月も続かない?」


 私が聞くと、噛み締めるようにお母さんは頷いた。


「男の子受けはするんだけどねえ。何故かいつも別れちゃうみたいなの。小さな理由で別れるのよ。大学生の頃付き合ってたタクヤくんはくしゃみの仕方が嫌で別れたんだっけ?」

「違うよ。くしゃみの後に鼻を手でこするところが嫌だったんだよ。まあ、くしゃみもうるさくて嫌だったけど」


 私の知らない彼女の姿を頭の中で思い浮かべた。くしゃみの仕方で別れを切り出す愛美のことを想像しただけで少し笑えるわ。


「じゃあ、私はそのくしゃみのような嫌なところはあるの?」


 さっきまで別れを切り出されていたのにこんなことを聞くだなんて、私はどうかしているわね。

 言わないだけで、些細な嫌なところがあるのかもしれないし、知っておくに越したことはないわ。


 愛美は小首を傾げてしばらく考えていた。


「さくらにはないかなあ。生活面のことだとむしろ、わたしのほうがズボラじゃないかな。くしゃみも可愛いし、劣等感すらあるよ。嫌なところはないことないけど、だからって別れたいとは思わないなあ」


「愛美も大人になったのね」


「別に、関係ないでしょ!」


 ぷりぷりと怒っている彼女も愛しくてたまらない。

 彼女がそう思ってくれていたと思うと、これまでの自分の言動が恥ずかしくなるわ。

 本当に私と愛美は両思いになれたのね。


「ありがとう。私にとっても愛美はもったいないほどの相手だわ」


 照れくれそうに「ありがとう」とつぶやいて愛美は俯いてしまった。

 その様子を愛美のお母さんは、にやにやと口元を緩めたまま見据える。


「いい人に出会えてよかったじゃない。ママも西園寺さんと仲良くしたいわ。また今度食事にでも行きましょうね」


 私は「はい」としっかりと頷いた。

 愛美と出会ってから、私の生活が見違えるほど変わったわ。こんなにも知らない人たちがいて、知らない世界があるのだと、思い知らされている。

 これまでの人生が嘘のようだわ。



「さっきまで別れ話していたのに、よくあんなこと言えるわね」


 街灯だけが照らしている歩道を私と愛美は手を繋いで歩いていた。

 軽口を叩くと、隣の彼女はむっと口元を歪ませた。


「可愛くないこと言うなあ。喜んでたくせに〜」


 彼女は握っている手をむぎゅむぎゅと力を入れた。私もむぎゅっと力を入れると、ついお互い笑ってしまう。


「そりゃ喜ぶわよ。実質あなたの初めてみたいなものなんでしょう。私は」

「その捉え方何なの〜、貞操に拘る男みたいなこと言わないでよ〜」

「あ、でもまだ3か月は経ってないわね。私たち、それまで続くかしら」


 繋いだ手をぶんぶんと振り回しながら、会話を続ける。

 

「続くんじゃない? 大丈夫だよ」

「何なのよ、その自信は」

「根拠のない自信は大事だよ〜、色々あったけど、それでも一緒にいるんだから、わたしたちは離れられないんだよ、きっと」


 ふと俯くと、歩いている2人の影が1つになっていた。

 顔を上げて愛美の横顔にかかった影があまりにきれいで、つい、見つめてしまうと、「どうしたの?」と彼女は私に聞いた。


 愛美と出会えたおかげで、私の人生は鮮やかな色がついた。

 苦しいことや悲しいこともたくさんあったけれど、愛美に出会えてよかった、と心底思えるわ。

 これからも一緒に生きていけるとは、まだ自信を持って言えないけれど、お互い皺皺のおばあちゃんになるまで、手を繋いでいたいわ。


「愛しているわ」


 ぽろっと溢れた言葉に愛美は硬直してしまった。

 きっとこの言葉は大事なときにだけ言う言葉で、溢れてしまうような言葉ではないのかもしれない。

 場面を間違えてしまったかしら、軽い女だと引かれてないかしら。

 だって、つい、愛していると伝えたくなってしまったのだもの。

 愛美が可愛すぎるのが悪いのよ! 私が悪いわけじゃないんだから!


 みるみるうちに愛美の顔が赤く染まっていった。


「も、もー、何よ、急に〜、びっくりするよ。さくらったら」

 

 予想外の態度に私まで恥ずかしくなってしまうじゃないの。

 顔を真っ赤にして、愛美は手を繋いでない方の手をぶんぶんと振った。


「ま、愛美もそんなに照れることないじゃない。挨拶みたいなものよ。キスと同じだわ」

「ここは日本だから! 重みが違うよ!」


 ぎこちなく話しながら、マンションまで到着してしまった。

 ぴかぴかと明るいエントランスではさすがに手を繋ぐことはできなくて、黙って繋いでいた手を離した。


 まだぬくもりが残っている右手が、汗でかすかに濡れている。


「ねえ、指輪、欲しいな」


 私と目を合わせずに愛美はつぶやいた。

 少し俯きがちになって髪の毛で顔が隠れてしまっているせいか、どんな顔をしているのかはわからない。


 嫌だなんて、言うわけないでしょう。

 

「今度買いに行きましょう。できるだけ早く!」


 顔を上げた愛美は照れくさそうに目線を逸らして頷いた。


「わたしもさくらのことを愛しているよ」


 顔を真っ赤に染めた彼女はぷるぷると震えている。


 愛していると愛美に言ってもらえる日が訪れるなんて、思ってもみなかった。だって、ずっと私が一方的に彼女のことを好きでいたんだもの。

 両想いなんて、人生で経験したことがなかったんだもの。


「私も愛美のことを愛しているわ」

「そ、そう。2回も言わなくていいよ。恥ずかしいから」

「愛美は2回目は言ってくれないの?」


 頬を染めたままの愛美は眉をしかめてため息をこぼした。


「愛しているなんて、特別な時にしか言わないんだから!」

「ふふ」

「何笑ってるの!」


 ぴかぴか明るいエントランスで私と愛美は再び手を繋いだ。

 

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