第60話 寂しいと言えなくて【美鈴視点】

 6月で梅雨がはじまったばかりだというのに、今日は晴天だった。

 休日だったらシーツを洗えたのになあ、なんて呑気なことを考えている昼下がりに上司に呼び出され、会議室で辞令が出たと伝えられた。


 噂通りの大阪転勤。

 上司はキャリアアップのチャンスだとか、経験を積めるだとか、どんなにポジティブな話をされても乗り気にはなれなかった。


 萌花に話したらどんな顔をするのだろう、と考えていた。


 私についてきてくれると言ってくれていたけれど、いざ、それが目前となると不安に苛まれてしまうのだ。

「これからのことは決まってから話そう」と言ってくれた彼女を信じたいのに。



 帰宅すると萌花はキッチンでチャーシューを煮詰めていた。先日、マスターから圧力鍋を譲ってもらったと話していたことを思い出す。


「ただいま」

「おかえり」


 その会話を交わして、あっ、今日は休みだったんだ、と気がついた。

 部屋は甘ったるいタレのにおいで充満していた。このにおいだけで胸焼けがしそうだわ。


「チャーシュー作ってるんだよ〜! あと30分で完成するから楽しみにしていてよ」


 呑気そうな萌花の満面の笑みに安堵する。

 彼女の隣に立って、鍋の中を覗き込んだ。チャーシューは糸で縛られた状態で鍋の上を転がっている。

 

「お酒はもちろん用意しているんだよね?」

「もちろん〜! 今日はクラフトビール買ってみたんだ。スッキリして飲みやすいって酒屋のお兄さんが言ってたよ」

「いいね。楽しみ」


 何気ない会話を楽しむように勤めないと、辞令のことや2人の将来について考えてしまって、せっかくの2人の時間が台無しになってしまう。

 ダメ。考えちゃダメ。どんどんネガティブになってしまうんだから。


「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」


 こんな時に限って、萌花は私の異変に気づいてしまうのね。

 美味しいチャーシューを食べる前に暗い話なんてしたくなかったけれど、こんな風に聞かれてしまったら答えないわけにはいかなかった。


「辞令が出たの。転勤が決まったよ」


 そうかあ、と萌花は頷きながら菜箸で鍋のチャーシューを転がした。


「じゃあ、引っ越し準備しなくちゃね」


 にっと歯をむき出しにして笑ってくれる彼女に、私も微笑み返す。

 この人と付き合っていてよかった、と改めて思った瞬間だった。


 チャーシューは絶品でお腹がはち切れそうなほど食べてしまった。

 萌花と夕飯を食べる機会が少なかったから、彼女と一緒に過ごせる時間があまりに幸福で頭がふわふわとしていた。

 こんな時間が日常なら――と考えないようにはしているのだけれど。


「旅行しない?」


 バラエティ番組を2人で見ていたら、萌花が突然言った。

 あまりに独り言のようだったから、「え?」と聞き返してしまった。


「温泉とか、なんでもいいけど、たまには思い出作りもいいんじゃないかなってさ」

「珍しいわね。腹に溜まるものしか興味がないのだと思ってた」

「そりゃ、旅先グルメは大事だけどね? 美味しいものを食べに行きたくない?」


 これまで私が旅行したいと仄かしても何かと理由をつけて断られたのに、萌花のほうから旅行を提案するだなんて。


「数日間も拘束されるなんてコスパが悪い〜って言ってたのは誰だっけ?」

「そんなこと言ってたっけ? 美鈴が記憶改竄したんじゃないの? それか酔ってるときの話じゃない~?」

「酒飲みはこれだから嫌いだわ」


 小声でつぶやくと「ん?」と萌花は小首を傾げた。


「何か言った?」

「なんでもないわ」


 どうせ思い付きで言ったのだろう、と聞き流していたら、有給取得はいつが可能かとか、どんなところに泊まりたいかとか、具体的なことを根掘り葉掘りと聞かれて戸惑った。


「萌花は仕事大丈夫なの? 連休は取れるの?」

「もう辞めるかもしれないって話はしてるから大丈夫だよ」


 私のことを思いやってくれることは嬉しいが、なぜか不安にもなる。


 別れる前の思い出作り? それとも純粋に旅行をしたくなっただけ?

 気まぐれな萌花のことだから、大した理由じゃないんだろうけれど――2年付き合ってきた恋人としては「おかしい」としか言いようがない。


 ただ、そうやって疑ってしまう行為は、表に出すべきではないから、黙っているけれど。


 あれよあれよという間に、旅館が予約されていた。

 旅先で何も起こらなければいいけれど――。



 辞令が出た翌日から目まぐるしく毎日が過ぎて行った。


 日々の業務と並行して引き継ぎ業務を行うことが、これほど大変だと思っていなかった。

 毎日2時間以上も残業をして、へとへとになりながら帰宅し、寝るだけの生活をここ1週間以上送っている。

 仕事と並行して荷造りも行わないといけないと考えるだけで、意識が遠のきそうだ。


 今日も23時を過ぎた辺りで会社を出た。

 明日は土曜だ――とはいえ、荷造りをしなくてはいけないと思うと、仕事をしているほうが賃金が発生するだけマシかもしれない。


 多忙の日々を過ごしていると、ふと思うことがある。


 私はここまでして仕事に打ち込むべきなのだろうか?


 子供を産むわけでもないのであれば、大金を稼ぐ必要なんてないだろう。責任の少ない仕事でほどほどに働く選択肢もあるのではないだろうか。


 そりゃあ、親の介護や老後資金は必要だが、あと20年以上働くのだから数千万以上の貯金は作れるんじゃないか。

 転職に困らないキャリアは築いてきたつもりだもの。


 ここまで悩んでしまう理由は何故だろう、と数日に渡って悶々と考えてきた。


 恐らく、私は責任を負いたくないのだ。


 いくら萌花が私を選んだとはいえ、私が彼女の人生を縛りつけることになる。

 結婚相手でもない、ただの恋人の転勤に付き合わせるだなんて、世間ではどんな目で見られるのだろう。

 愚かだと笑うのだろうか、若いねと憐れむのだろうか。いずれにしても、自分の恋人がそんな目に晒されるだなんて、耐えられない。


 マンションのエントランスでばったりと渡良瀬さんに出会った。

 出会い頭で顔を合わせるや否や、「引っ越されるんですか?」と聞かれた。


 萌花は西園寺さんと仲が良いから、一通りのことは伝わってるのだろうと察した。別に渡良瀬さんと世間話がしたいわけでもなかったので、他人行儀にやり過ごすことにした。


「そうですね。短い間でしたがお世話になりました」

「いえいえこちらこそ。あまりお話することができませんでしたが……お話は伺っています」

「お互いそうですよね」


 渡良瀬さんは苦笑して、そうですねとつぶやいた。

 同じエレベータに乗って、ボタンを押した。

 横に立っている彼女を一瞥すると、ぼんやりと宙を眺めている。


「でも、お二人はすごいです。よほど信頼していないと、一緒に引っ越しなんてできませんよ」

「もし、同じ立場になったらどうしますか?」

「わかりません。もしも、わたしが転勤する側だったとして――ついてきてほしいとは言えないかも。今の彼女はトレーダーだから、平気な顔してついてきてくれるだろうけど、どこかに所属していたら、どうかなあ。来なくていいよというかもしれません」


 思っていたよりもドライな人だと思った。

 普通に考えて、恋人と遠距離になるだなんてとても寂しいことで、可能であればついてきてほしいと思う人の方が多いんじゃないだろうか。


「悩んでいるんですか?」


 愛美さんは私の方を向いた。


「悩んでいるわけじゃないんですが。ただ、いざ考えると恐ろしいことだなあと思ったんですよ。責任とか、あるじゃないですか。

彼女は、自分の店を持つことを目標にして努力をしていたわけで、その夢は私のせいで叶えられなくなるじゃないですか」

「それはプレッシャーになりますね」


 上昇していたエレベータが止まって、私と渡良瀬さんはそれぞれ足を一歩踏み出した。


「責任とかどうとか考えなくて済む、子供のままでいたかったですね」


 彼女は困ったように微笑みながら、ぽつりとつぶやいた。

 私もそうですねえ、と相槌をうつ。


「わたしもふらふら生きて適当な誰かと付き合ってきましたが、今になって、誰かと生きていくって大変なんだと思い知らされていますよ。

どうしてみんな平然とこなしているんだろう、すごいなあって」


 また、そうですねえ、と相槌をうった。

 私も心の底からすごいと思う。今、萌花のことを投げ出せたなら、今抱えている重荷もなくなって身軽になれるだろう。

 もちろん、投げ出すつもりは微塵もないけれど。


「だからといって、好きな人を失いたいわけじゃないんですよね」


 渡良瀬さんはあはは、と笑いながら言うが、目は全然笑っていなかった。


「ひょっとしたら私たちは贅沢ものだから、苦労しているのかもしれませんね」



 萌花から「からすみパウダーをお客さんからもらったよ~」とLINEがあった。

「今度からすみパスタつくるよ」と続き、ウインクをしたゆるキャラのスタンプで締められていた。


 私は確かに贅沢ものだ。


 こんなかいがいしく自分のことを好きで居てくれて、尽くしてくれる相手がいてもなお、責任を負うことを不安がっているのだから。


「ありがとう。楽しみにしてる」と返信をして、ベッドにもぐる。


 シーツからはかすかに萌花の甘いにおいがした。

 夜に仕事をしているから、毎日私は萌花と一緒に眠ることはできない。ダブルベッドで一人で眠る毎日だ。


――萌花が仕事を夜職をやめたら、毎日一緒に過ごせるのかな。


 嫌な考えが浮かんでかき消した。


 1人で眠ることに慣れたとはいえ、寂しくないわけじゃない。


 その辺の同棲している恋人たちみたいに、帰宅して一緒にご飯を食べて眠る生活を求めているに決まっている。

 ただ、好きな相手と付き合うために我慢していたというだけで。


 考えれば考えるほど不安で頭がおかしくなってしまいそうだわ。

 布団をすっぽりと頭からかぶってから、極力何も考えないように努めていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまった。

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