第61話 好き、嫌い、好き【美鈴視点】

 旅行当日、7時50分発の高速バスに乗るために5時半に起床した。


 萌花はすっかり昼夜逆転しているから、寝不足に苦しみながら身体を起こしていた。

 バスは朝早いから、仕事後に起きたままでいたほうが良いんじゃない? とアドバイスしていたのだが、旅行前日に彼女は休みを取って深夜まで起きていたらしい。


「あたしは朝型人間だから大丈夫大丈夫」


 萌花が朝型だったのはいつの話よ、と心の中で突っ込んでいたが――案の定寝不足で苦しむ羽目になっていた。

 5分に1度は眠たいと唸っている。


 私たちが向かうのは県外の温泉街だ。

 新幹線が通っていないので、高速バスとJRを乗り継ぐしかないのだ。バスも1日3本しかないらしい。

 元々はフェリーで向かう予定だったのだが、萌花が「船は沈むから怖い」と駄々をこねたため急遽高速バスを利用することになった。



 バスセンターまでの道をゆっくりと歩いていた。


 朝の澄んだ空気は好きだ。

 こんな早起きをすることなんてない。目に見える様々な光景が初めて見たような新鮮さがあった。

 道路を走るトラックや、制服を着た中高生の通学姿すら、毎日見てきたものとは違って見えた。


 隣には私とは対照的な、げっそりと項垂れている萌花の姿があった。


「オンセンタノシミダネ」

「その棒読みを聞いて誰が楽しみだと思えるの?」

「大丈夫大丈夫。バスの中で寝るために日本酒を買ってきたんだよ。100%熟睡できるから」

「……萌花は長生きできなさそうよね」


 がらがらと私たちはキャリーケースを引きずりながら歩く。

 こうやって悪態をつく私もけして本調子ではなかった。喉が少しイガイガするのよね。風邪でもひいたのだろうか。

 この程度の喉の違和感なら、バスの中でひと眠りすれば解消されるだろうけど。



 バスセンターに到着すると、私たちのように重たい瞼をこすっている旅行客や、死んだ目をしたサラリーマンたちがちらほらといた。


 開いている店はコンビニとパン屋さんと総菜屋さんくらいだけれど、仕事の帰り道に立ち寄るデパ地下より心が躍った。


「つまみは何にする? タコの天ぷら美味しそうだなあ。いや、ここは総菜ピザパンもいいかもしれないな~だし巻き卵もどうよ? 日本酒だしなあ。悩むなあ」


 隣の彼女は別人になったのかと疑うほど、饒舌に語りだした。さっきまで死んだ顔をした女はどこへ消えたのか。


「今、こいつ元気じゃねえかって思ったでしょ」


 惜しい。こいつ別人かよ、が正解だわ。


「まあ、元気なのは何よりじゃない?」

「ため息交じりに言わないでよ~、あたしだけが楽しんでるみたいで寂しいじゃん~!」


 ぷくっと膨らませた萌花の頬を人差し指で突っついた。


「あんたはほんっと嫌なやつよね」


 誰よりも私が楽しみにしているって、わかって言ってるんだから。



 結果、私たちはタコの天ぷらとじゃがりこと総菜パン、あと野菜ジュースを購入した。これでも自制したほうで、候補はあと倍はあったのだが、さすがにバスの中で食べられなかったら困ってしまうと、途中で正気に戻れたおかげで踏みとどまれた。


 バスの運転手さんにキャリーバッグを渡してから、車内に乗り込んだ。

 乗客はけして多くはなく、私たちの前後に座っている人は誰もいない。

 座席に座るとき、私は萌花を窓際に無理やり座らせた。日本酒を飲むつもりの人間を、通路側に座らせられないわ。


 座った彼女はハンドバッグの中から酒瓶を取り出して、ふふんと鼻息を鳴らす。


「大正義、獺祭ちゃんを持ってきましたよ!」


 300ミリの小瓶を見せびらかして、萌花は鼻の下を伸ばす。


「朝からよく飲めるわね」

「ふふーん。君にとっては朝かもしれないけど、あたしにとっては夜同然だからね!」


 周囲に人がいなくて助かった。


「飲むのはいいけど静かにしてよね」

「あたしを誰だと思ってるの? 酒のプロだからね! 汚い飲み方はしないよ~」

 


 2時間後、萌花は前方の座席に突っ伏していた。


 気持ち悪い気持ち悪いと唸りながら、サービスエリアの到着を待っていた。

 私は黙って彼女の背中を摩った。

 わざわざ言いはしないが、もちろん呆れている。


「こんな気持ちになるなら、草や花に生まれたかった」


 聞き覚えのあるフレーズすら、耳に入らず通り過ぎていくほど、周囲の視線が嫌で嫌でたまらない。

 いっそのこと、今すぐ草や花になってくれ。

 

 サービスエリアでリバースした萌花はけろっとした顔をしてバスに戻ってきた。念入りにうがいをしてくれたのか、吐しゃ物特有の酸っぱいにおいはしなかったが。


「今日はキスはしたくないわね」


 いくら恋人とはいえ、大抵はキスなんかしたくないだろう。

 せめて一日は時間を空けてほしい。キスどころかいちゃいちゃも正直嫌だ。こんなこと言ったら喧嘩になりそうだから言わないけれど。

 泥酔している女性を襲う男性が存在するらしいが、正気とは思えない。


 萌花はぶっすーっと口をゆがめた。


「ひどくない? あたしだって好きでゲロ吐いたわけじゃないんだよ」

「好きでゲロ吐いたわけじゃない……嬉々として日本酒持ち込んだ人が何をいうか」

「まさか吐くとは思わなくてさあ。人間失敗することだってたくさんあるじゃん」

「あなたはいつも失敗してばかりじゃない。失敗で思い出した。私から借りているお金、そろそろ返したらどうなの?」

「今お金の話してないじゃんか。美鈴の悪いとこだよ。怒るとすぐ昔のこと持ち出すんだから」

「お金を返していないことを勝手に過去にしないでくれる!?」


 言い合いをしていたら周囲の視線が集まっていることに気が付いて、思わず私たちは黙り込んでしまった。



 それから私たちは、言い合いをしたり口を閉ざしたりを繰り返しながら、バスからJR、路面電車へと乗り継いだ。

 こんなジェットコースターみたいに気分がコロコロ変わる人が他にいるだろうか? 私は萌花しか知らないわね。


 電車を降りて温泉街の駅のホームを見渡すと、白を基調とした明治の洋館風の建物が目に入った。どこか別の世界に迷い込んだのかと錯覚してしまう。

 線路を走る路面電車や遠くに見える浴衣を着て歩いている女性たちも、どこを切り取ってもドラマのワンシーンのようだ。


「何ぼーっとしてるの? 早くチェックインしなきゃいけないでしょ」


 萌花に手を引っ張られて、改札を出て旅館へと向かった。


 駅を出た後も街の風景をゆっくり楽しもうともせず、萌花は大股でスタスタと突き進んでいく。


 何をここまで急いでいるのだろう? 

 思えばいつもそうだ。萌花はなぜかいつも焦っているように思う。飄々としているくせに、焦燥感を常にひた隠しにしているような。

 気のせいかもしれないけれど。


「そんなに急がなくても良くない?」


 声をかけると、ぴたりと彼女は足を止めて振り返った。

 きょとんと小首を傾げた彼女は、ぎゅっと私の手を強く握った。


「どうせ街中歩くなら、浴衣着たくない?」


 思いもよらぬ提案に、頭がフリーズしていた。



「お2人ともよくお似合いですね~」


 広々とした客室に女将さんの甲高い声が響き渡った。

 それが営業トークだとわかっていても、頬がほころんでしまうのは人間の性だろう。


「それほどでも~」


 にへへと萌花は下品に笑っていた。


 彼女は可愛らしい白の浴衣を着こなしていた。薔薇や草があしらわれていて、目をひく柄だ。帯も赤色で、けして地味すぎない。

 私は青の浴衣だ。ところどころ白の模様が描かれている。控えめだが、気に入ったのだ。


 女将さんに髪の毛まで結ってもらったうえに、下駄まで借りてしまった。


「女子旅プランとのことですが、お友達同士ですか?」


 何のためらいもなく、女将さんに疑問を投げかけられて、どう答えるか躊躇していると


「こう見えて恋人同士なんですよ。見えないかもしれないですけど~!」


 わははと大口を開いて萌花は言った。


 こんな場で萌花が恋人同士だと私たちの関係をカミングアウトするだなんて予想外で、思わず俯いてしまう。

 当の女将さんも口をぽかんと開けて硬直してしまっていた。


「ご、ごめんなさい。変な気を使わせてしまって」


 頭を下げると女将さんは、「いえ」と首を振った。


「恋愛の形は様々でございます。お2人は――とってもお似合いですよ。ぜひ楽しんでくださいね」


 にっこりと微笑む仮面の裏側に、どんな表情が隠されているかわからないが、その言葉に少しだけ救われた。



 平日で貸し切り状態の足湯に浸かっていた。

 隣に座っている萌花は落ち着きなく湯の中で足をぶらつかせている。私はさっきの女将さんとのやり取りを思い出して、彼女に尋ねた。


「どうして恋人同士だなんて言ったの?」

「実際恋人同士じゃん」

「そうだけど。珍しいなって」

「嫌だった?」

「ううん」


 うれしかったよ、と伝えるのは小恥ずかしい。

 今がすごく幸せで、夢みたいだ。


「私、明日死んじゃうのかも」


 ええ、と萌花は口を斜めにした。


「死んだら困るよ~、美鈴が死ぬならあたしもついてく!」


 ぎゅうっと浴衣の袖にしがみついて、大きな目を私の目にじっと合わせるから、つい目をそらした。


「ついてこなくていいよ。死んだあとくらいは1人にさせてほしいし」

「え~美鈴らしくないなあ。独りぼっちは寂しい~ってめそめそ泣きそうなのに」

「寂しいかもしれないけど、その時はあっちで彼女作るわ」

「ひどい! 浮気じゃん!」

「まあ、どうしてもついてくるっていうなら、一緒にいるけれど」

 

 素直じゃないんだから、とにやにやする萌花を睨みつけて、顔を逸らし続けた。


 思えば、今の私にとっては萌花のいない生活なんて考えられない。それはとても恐ろしいことだ。

 誰かがいないと生きていけない人間は、1人で生きていける人よりはるかに弱い。萌花に出会ってしまった私は、とても弱い人間になってしまった。

 責任を取ってほしいくらいだわ。本当に。

 

「美鈴ちん可愛いな~結婚してよ~」


 もやもやと考える私の気持ちなんて知らずに、萌花は冗談ばかり言う。

 こういうやつだってことは、前から知ってるけど、やっぱりむかつくわ。


「頭に何か湧いてるんじゃないの? 調子がいいんだから」

「そう言ってる顔が赤いのは何でよ~ツンデレだなあ」

「だまれだまれ!」


 むかつきはするけど、嫌じゃないなんて、私もどうかしているわ。

 

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