第42話 月はきれいだけど【さくら視点】

 好きな人と付き合えることが、こんなに幸せだと知らなかった。


 毎日同じ屋根の下で過ごせるだけで幸福だと思っていたのに――私は一生ぶんの幸せを手に入れてしまったんじゃないのかしら?

「好き」と言ったら「好き」と返ってくるだけで、心臓が爆発してしまいそうになるの。

 肌を重ねたり、唇を合わせられるだけで、幸福で死んでしまうんじゃないかってほど、気持ちが高ぶってしまう。


 そういうと愛美は「幸せなのに死んでしまうだなんて、おかしいよ」と笑われてしまう。「さくらが死んだら、わたしが不幸になっちゃうよ」とも。


「というわけで、今は最高に幸せよ!」


 2週間ぶりに萌花の店に飲みに来ていた。

 惚気られる相手なんて、萌花くらいしかいないもの。散々話したせいか、彼女はうんざり顔で、ため息を繰り返している。


「状況が180度変わってるけど、どういう風の吹き回しなわけよ」

「ふふふ、いくらでも言いなさいよ。最後は愛が勝つのよ!!!」

「1年もすれば、ロマンチックじゃなくなるから安心しなよ。オナラで会話するようになるからさ」

「2人はそうなの?」

「あたしはおならするけど、美鈴はしないなあ」


 それは、美鈴さんが気を使っているからじゃないかしら? 

 萌花と話していると美鈴さんの健気さが伝わってくるのよね。もっといい女は他にいると思うわよ、とアドバイスをしてあげたくなるわ。


「美鈴さんがかわいそうだわ」

「今の会話に美鈴がかわいそうな要素あった?」

「この会話に限らないわ。いつも美鈴さんはかわいそうよ。萌花なんかと付き合ったばかりに……」


 むっと萌花は口をへの字にした。 


「ダメ女好きなさくらには言われたくないなあ」

「ダメな人ほど愛しくなるのよ……って違うわよ! 愛美はダメなんかじゃないわよ! ダメな女っていうのは、どこぞの派手髪女みたいな人のことを言うの!!」


 うるさいうるさいと耳を塞ぐ萌花を横目に、テーブルに置いていたラフロイグのロックを飲む。


 愛美は私にとってはダメな女なんかじゃないはずだわ。

 だけど、ダメ女代表ともいえる萌花がダメだというのなら、ひょっとするとダメな人なのかもしれないわ。


 まだ開店してすぐなこともあって、店内はがらんとしている。

 達也さんは裏で事務仕事をしているらしい――つまり、今は私と萌花で2人きりということね。

 グラスの中の氷が、ぱきんと音を鳴らす。


「あの―—聞いてもいいかしら」


 ぼんやりと水を飲んでいた萌花は、「どした?」と大きな目を私のほうへ向けた。


「聞きづらいんだけどね……? その……」

「なんだよ。珍しいじゃんか」

「萌花のところは、夜の営みはどうしているの?」


 萌花は眉をしかめて、「夜の営み」と繰り返した。


「セックスのことを夜の営みと呼ぶ人間を、リアルで初めて見たよ」

「恥ずかしいじゃないの」

「顔真っ赤~~」

「うるさいわね!!」


 クソガキの男児みたいに私をからかった後、萌花は「セックスねえ」とつぶやきながら、棚に並べてあったサウザのボトルを手に取り、ショットグラスに注いだ。


「勝手に飲んでいいの?」

「いいのいいの。アルコール飲まなきゃ、下ネタなんて話せないもん」


 こんなところで、意外な一面を垣間見るとは思わなかったわ。

 萌花はテキーラを一気飲みして、すぐさま水道水をグラスに注いだ。その並々注がれた水も、あっという間に全部飲み干してしまった。

 彼女の目はとろんとしてしまっている。 


「じゃあ、さくらのお悩みを聞こうじゃないの。夜の営みの何が知りたいのかね?」


 あー、さっそく酔っ払いのテンションじゃない。

 私はほぼ氷のラフロイグを煽って、空のグラスを片手で差し出した。

 さりげなく聞くつもりだったのに、いざ口に出すと恥ずかしくなってしまったわ。


「お代わりを頂戴。私も酔わなきゃやっていられないわ」

「そうこなくっちゃ」


 萌花は鼻歌を歌いながら、水割り用のグラスにラフロイグを並々注いだ。

 は? それ、普通のロックの3杯分はあるじゃないの。

 私のことを潰すつもり? まだ19時過ぎなのよ?


「はい、ラフロイグのロックです」


 水割り用のグラスに注がれたラフロイグは、いつも以上に消毒液のような香りを漂わせていた。

 どや顔の萌花を一瞥して、あからさまな突っ込み待ちにうんざりするわ。


「あんたの頭をかち割ってやりましょうか」

「カチ割り氷だけに?」


 上手いことを言ったつもりなのだろうか。空気が冷えたわよ。


「達也さんに言いつけるわよ?」

「それはやめてくれ〜〜」

「まあ、これは3杯分つけてくれていいから、あとテキーラも。それなら大丈夫でしょう」

「さくらは天使なの?」


 何故だか萌花のことを憎めないのよね……どうしてかしら。


「で、さくらは夜の営みの何が知りたいのさ」

「誘い方が知りたいのよ」

「誘い方、ね」


 ふんふんと相槌をうちながら、萌花は小首をかしげた。


「そのままよ。付き合ってから、まだ一度しかしていないのよ」

「何を、セックス?」

「この話の流れで他に該当するものがある?」

「まだ一度しかしてない、ねえ。お互いしたくないならいいじゃん」

「いつもの物分かりがいいあなたはどこへ行ったの? こんな質問をすることの意図を汲み取りなさいよ!」


 にいっと萌花が気色悪いにやけ面で、腕を組んだ。


「意図なんてわからないなあ。さくらさん、何がしたいか言ってごらんなさいよ」


 確実にわかって言ってるから、腹立つのよ!

 でも、萌花は恋愛においてはスペシャリスト、私よりはるかに恋愛については詳しいわ。ここで萌花を拗ねさせてしまったら、貴重な意見を聞けないかもしれない。

 頭にくるけど、仕方ない……。


「愛美とエッチしたいのよ!! これでいいの!?」


 げへへ、とスケベ親父ばりのニヤつき顔で、親指を立てた「オッケー! 素直になれんじゃん」

 美鈴さん、尊敬してしまうわ。


「特別に考えなくてもいいじゃんか。セックスしよ、でいいんだよ」

「萌花はいつもそうなの?」

「んなわけないじゃん」


 意地でも自分の経験談は話さないつもりなのね。

 ラフロイグを喉に流し込む。すっかりグラスは水滴で濡れてしまっていた。


「まあ、基本的にはどっちかが誘うかなあ」

「どうやって誘うのよ」


 やっぱり言いたくないのか、もじもじとし始める。


「ここまで私に言わせといて、自分はダンマリはなしよ」


 んー……と唸りながら目を伏せる。


「……取り決めをしてるわけじゃないけどさ、どっちかが恋人繋ぎをしたときにヤることが多いよ。合図、みたいな」


 頬を赤らめて俯いてしまった。

 こんなヤリマンビッチ女でも、照れることもあるのね。

 ただ、もったいぶった割に、つまらない回答だったわ。損した気分。


「過去はどうだったのよ」

「うーん、過去——その場の雰囲気で「あ、今したいんだなあ」と感じ取ってヤるってことが多かったな」

「参考にならないわね……。漠然としすぎだわ」

「さくらもいやらしい雰囲気を作ればいいんだよ。愛美ちゃんがどんな子かは知らないけど、一緒にエロビデオでも見りゃむらむらしてくれるよ」

「エロビデオでムラムラしてくれるのかしら」

「そりゃ、イチコロだよ。世の男性たちはそれで抜いてるんだよ?」

「一理あるわね」


 今まで異性と同性どちらとも、恋愛関係になったことがなかったから、世間でいう普通の価値観がわからないわ。

 愛美は私とは正反対で、経験豊富そうだから、どうにかして肩を並べなくっちゃ。呆れられたくないもの。

 こんなちゃらんぽらんの女にしか聞けないなんて、情けないわね。


「しかし、あのボインを揉みしだけるのは羨ましいな〜」

「はあ、美鈴さんが可哀想だわ……」

「何をいう!」


 頑張って、愛美にふさわしい彼女にならなくちゃ。



 明日は土曜日だから、レンタルDVDショップへ寄った。

 いつも通り映画だけを借りるつもりだったけれど、エロビデオも2本借りることにした。エロビデオを見せれば、愛美もむらむらしてくれるのかしら?


 そもそも、エロビデオがどんなものかも、知らないのだけれど。聞くところによると、時間停止ものが人気らしいわね。それだけは知っているわ。


 レンタルDVD屋から自宅までの帰路は、いつもより短く感じられた。

 愛美を誘うだなんて、慣れないことをしようとしているから? それとも、悶々と考え事をしながら歩いていたかしら?

 頭の中で、何度シュミレーションをしても不安な気持ちは増すばかりだわ。


 愛美からLINEが届いた。


「飲み会終わったよお。今から帰るね」


 その一文だけで、顔がにやついてしまった。

 絶対に、この顔を彼女には見られたくないなあ、と思いながら「お疲れ様。待ってるわ」と返信した。


 顔を上げると夜空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいた。煌々と光る様が綺麗だったけれど、今の私には愛美に「月が綺麗ね」という勇気は持ち合わせていなかった。


 早く、愛美に会いたい。

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