第12話 あなたを嫌いになれたら【さくら視点】

 愛美が出て行ったとき、私はちょうど目を覚ましていた。

 酒を飲んでうたた寝していただけだもの、眠りも浅い。

 誰かと電話していたことも知っているし、私の頬を撫でていたときも起きていた。


 なぜ、愛美は私に触れていたのだろう?


 だって、愛美は私のことなんてこれっぽっちも好きじゃないもの。

 誰か、私が知らない人をずっと好きでいる。それくらいは何となく察しているの。


 愛美のスマホに電話した「誰か」がその人だってことも、なんとなく察しがつくわ。

 ベランダから戻ってきた愛美はふんふんと鼻歌を歌ってご機嫌だったもの。いつぶりの連絡だったのかしらね。

 嬉しくてしょうがなかったのでしょうね。


――でも、その後出ていくとは思っていなかった。


 クリスマスの夜によ? 相手も相手よ。こんな日に急に呼び出すなんておかしいわ。私が一緒に過ごしていたのに……寝なければよかった。

 

 そんな愛美から泣きながら連絡が来るとも思っていなかった。


 おかしいと思わない? 

 愛美のことを泣かせたであろう張本人じゃなくて、どうして私が愛美のことを慰めなきゃいけないの?

 泣かした女は今はどこにいるのかしら? 

 いい加減にしてよね。どうして愛美のことを追い詰めるのかしら。


 いっそのこと、愛美のことをかっさらってくれたらまだ諦めがつくのに。


 私にとって愛美はお荷物でしかないのよ。

 そんなに稼いでいないくせに家事もやらないし、いつも私の話を聞かないし、趣味だってぜんぜん合わない。


 そうよ、私は恋愛映画なんて好きじゃないもの。

 アニメ映画とティムバートン映画を少し観るくらいだわ。

 あの子みたいに、アカデミー賞やパルム・ドール受賞作をチェックしたりもしない。

 パルム・ドールを受賞した映画を前に一緒に観たけれど……あれは観る睡眠導入剤に違いないわ。


 なのに、私はどうして走って愛美のもとへ向かっているのかしら。

 自分でも、おかしいと思うわよ。



 愛美は私の行きつけの雑炊屋さんの端っこの席に座っていた。

 縮こまってしくしくと泣いている様は、幼い子供が迷子になったかのようで愛らしかった。


 朝5時まで営業しているこの店は、いつも深夜になってお客さんの出入りが増える。

 まあ、晩ご飯に雑炊屋なんて食べないものね。

 特に歓楽街で遊んでいるような連中は。

 そのこともあって、店内はまだがらがらだった。なんだかんだでまだ23時前なのよね。

 私は泣いている愛美の手前に座り込んだ。


「何か頼んだ?」

 愛美は控えめに首を振る。

「そうなのね。雑炊でも食べておけば良かったのに」

「……おなかいっぱいだもん」


 枯れきった声に思わず笑ってしまいそうになる。


「そう。私は軽くつまむけど、愛美は食べないの?」

「だし巻き卵は食べる」

「わかったわ」


 声が枯れている愛美のかわりに卵雑炊とだし巻き卵を頼んだ。

 今はお腹空いていないとは言っていたけど、気が変わるかもしれないものね。


 しばらくすると丁寧に巻かれただし巻き卵と、ふつふつと煮えている雑炊が運ばれてきた。

 お酒を頼もうか悩んだけれど、さっきまでえげつない量の日本酒を飲んでいたことを思い出してやめることにした。

 愛美はじっとドリンクメニューを眺めている。


「まだ飲むつもりなの?」

「飲まなきゃやっていられないから」

「やめときなさいよ。明日も仕事なんでしょう? 朝起きられなくなるわよ」

「いいの! そしたら休むだけだもん」


 さっきからやけに口調が幼くなっているのは気のせいだろうか?

 べそべそと泣いている彼女を目前にしたのなんてはじめてで、少しだけ新鮮。


「生を飲む。すみませーん! 注文いいですか!!」


 いつもは出さないような腹からの声を出して、店員を呼びつけて生を頼んでいた。まあ……愛美が飲むなら、と私も生ビールを一緒に頼む。

 ジト目で愛美は私を見る。


「お酒飲まないんじゃなかったの?」

「愛美が飲むなら付き合うわよ。酒好きの宿命ね」

「ふーん。知らないけど」

「それで、いったいどうしたの? 愛美が泣くだなんて、珍しいわ」

「泣くことくらいあるよお……」


 口をへの字にしてまたべそべそと泣き始めた。

 机に置かれた生ビールをごくごくと愛美は水を飲むように飲んでしまう。追加で卵焼きも口に頬張った。


「やけ食いなんてしないでよ」

「さくらに言われる筋合いないもん! そもそもさあ、さくらが酔っぱらわなければわたしがこんな思いしなくて済んだのに! ひどいよ! 今日はクリスマスなんだよ? どうして愛美のことを一人にしたの?」


 えーんえーん、と今にも喚きだしそうな勢いで、呆気に取られる。


「いつもそうだよね。さくらって酒癖悪いじゃん? それでわたしがどれだけ苦労してきたかわかってるの?」


「それは、申し訳ないわ」


「だいたい、いつも飲み歩いてばっかりで、いつも寂しい思いしてることわかってるわけ? こんな物足りない暮らしをしているから、昔振られた人にほいほい会っちゃうんでしょう!?」


 どうして怒られているのだろう?

 私が飲みに出るときは大抵愛美も付き合いや残業がある日だけだ。

 結果的に私が後に帰ることも多いのは確かだけれど、「今日遅くなるから外食でもしてね」と言っているのは自分じゃないの。

 まあ、バイトの日は別だけれど。バイトの日に出かけることを咎められても困るわよ。


 顔をほんのりと赤くした愛美はうわーん、と漫画みたいに叫んで机に突っ伏した。


 どうしてこんな面倒くさい女の子を好きになったのかしら、と急に冷静になる。

 ただの一目惚れだもの。性格を知って好きになったわけじゃないのが、最大の弱みね。

 鼻を赤くしてすすりながら、愛美は生ビールを全部飲み切ってしまった。


「凛のこと好きなのに、凜はわたしの好意を知っているのに、ずるいよ。ひどいよ。どうしたらわたしはあの子のことを忘れられるの? ずっとこんな思いをして生きてかなきゃいけないの? それとも、普通の女の子みたいに家庭に入れば忘れられるのかな? わかんないよ。どうしたらいいのか、わかんない」


 愛美はわかんないわかんない、と子供みたいに駄々をこねながらだし巻き卵を再び頬張った。

「もう飲むのやめなさいよ。愛美、今日はおかしいわよ」


 すると彼女は私が飲んでいる途中の生を奪い取って、飲み干した。


「まだ飲むもん。さくらにはわたしの気持ちなんてわからないんだよ。この人じゃなきゃダメってくらい誰かを好きになったことはあるの? その人の記憶だけぜんぶなくしてしまいたいと思うほど、苦しい恋をしたことがあるの?」


 私は深々とため息をついて、店員に水を頼んだ。


 この人じゃなきゃダメってくらい誰かを好きになったことはあるの? じゃないわよ。

 今、私はこれまで経験したことないほどの苦しい恋をしているわ。


 愛美みたいな面倒くさくて扱いづらい女になんて出会わなければよかった、と何度思ったことかしら。

 こうやって介抱しても、明日には忘れられているでしょうしね。世話を焼いたって、ただの友達扱いなのよ。こんなに馬鹿馬鹿しいことってある?


 ずっとそばにいる私じゃなくて、たまにひょっこりと電話をかけてくる女のほうが好きだっていう愚か者を好きになった、わたしも馬鹿なのかもしれない。


 店員は水を持ってきてくれた。愛美を一瞥して私に同情の眼差しを向けて去った。


 目の前の彼女の大きくて色素の薄い目が潤んでいる様はたまらなく可愛らしかった。あと小さい唇も。それを言ったら、愛美はきっと「作り物なのに」と素直に受け取ってはくれないだろうけど。

 必死に外面を良くして繕っている愛美を私は好きになったのよ。


「私は、あなたのことが好きよ」


 喚いていた愛美はきょとんとして、目をしばたたかせた。


「え?」


「あなたは私のことを好きじゃないかもしれないけど、私は愛美のことが好きなの。大事に思っているの。

 だから、無理な飲み方はしないでちょうだい。あと会うと傷つくような相手に会いにいかないでほしい。

 私一人じゃ、苦しい恋の埋め合わせはできないかもしれないけど、これから努力するから。嫌なところがあれば直すから」


 アルコールが回っているのか、視界と頭がふわふわとする。

 恥ずかしい。

 こんな一世一代の告白を、どうして今勢いでしてしまったのだろう。ほら、目の前の彼女が顔を赤く染めているじゃないの。口元をぎゅっと閉じて、俯いてしまっているじゃないの。


「もしも、私と一緒にいたくないと思ったら、いつでも遠慮なく出て行ってくれていいからね」

「そんなこと、思うわけない」


 いつものへらへらとした顔じゃない、真剣な眼差しを私に向けた。


「わたしが、さくらと一緒にいたくないなんて、思うわけないじゃんか」


 その言葉がどういう意味なのか、私にはわからなかったけれど、今はこの言葉さえあれば十分な気がした。

 ううん。私には、この言葉以上なんてないのかもしれない。


 一緒にいられたら、それだけでいいと思える相手は、私にとって愛美しかいないのだもの。



 翌日、起床するとリビングのソファで愛美が横になっていた。

 いつもなら既に会社へ行っているはずの彼女が、部屋にいるということは今日は休んだのだろう。よくクリスマスの翌日に休もうと思えるわね。

 二日酔いになるほど飲む彼女の自業自得ね。


「おはよう……ねえ、さくら、わたしどれくらい飲んでいた?」

「うーん、わからないけれど。何リットルかしらね?」

「リットル? 昨日の記憶がぜんぜんないんだよねえ……やらかしていなかった? 大丈夫?」


 昨日みっともなく泣いていた愛美のことを思い出して、ついほくそ笑んだ。


「ううん。いつも通りだったわよ。良かったわね。優しい同居人がいてくれて」

「え? やっぱり何かあったでしょ〜!? もう、教えてよお」

「特にないわよ。安心して」

 はあい、と愛美は机の上に置いているアクエリアスを飲んで、またソファに横になった。


 いいの。

 私さえ我慢をすれば、これまで通りの平穏な暮らしを保つことができる。

 きっとこれからも、愛美は「凛」という名前の女性と連絡を取るのだろう、私のことだから、すぐに気づいてしまうのだろうな。

 いつも愛美のことばかり見ているもの。

 でも……


――わたしが、さくらと一緒にいたくないなんて、思うわけないじゃんか。


 その一言さえあれば、私はいくらでも我慢できてしまうのだろうな。






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