第7話 氷の令嬢と洗い物
翌日の弁当の事を考慮して多めに米を炊いていたお陰で二人分のカレーライスは問題なく完成した。
一晩寝かせた甲斐があり、香ばしい匂いと色付いた具材が食欲をそそる。
口にすればマイルドな甘みが広がり、熟成された旨味とコクがカレーの美味しさを存分に引き出していた。
「……おいしい」
「そりゃどうも」
自家製のカレーは"氷の令嬢"の口にも合ったようで、一口食べた後に素直な賛辞を呈してくれた。
内心また泣かれないかと構えていた心配は杞憂に終わり、三日前と比べて大分円滑に食事は進む。
とは言え、成り行きで一緒に食事を共にすることなったものの、和気あいあいと世間話をするような仲ではない。
必然的に食器の音だけが響く無言の時間が続き、先に食べ終えた朝陽はかなり時間を持て余した。
(残った問題に手を付けておくか)
ずっと同じ空間にいるのも変なので、少し離れたソファーに移動した朝陽は低めのテーブルにノートを広げる。
数時間前までは手が付けられない難問だったが、冬華の指導を受けた今なら問題なく一人で解けるはずだ。
この問題はどの公式を使うべきか、と朝陽は早速頭を捻らせる。
しかし、食後すぐとあって中々思考が纏まらない。
そんな状況の中で、朝陽は思わぬ形で意識を遮られた。
「……火神さんは料理がお上手なのですね」
鈴を転がすような声に思わず耳を疑ったのは仕方がないことだろう。
まさか、冬華から会話を振ってくるとは思ってもいなかった。
無言や沈黙に耐えられない質ではないはずだし、そもそも話し掛けるという行為自体が"氷の令嬢"のイメージとは程遠い。
「雑炊とカレーで胸を張るのも何だけど、これに関しては親の影響だな」
「……親、ですか」
「父さんがシェフで、母さんがパティシエ。」
隠している事でもないので正直に話せば、カレーを食べる手を止めた冬華が小さく感嘆の声をもらした。
片や三ツ星レストランのオーナーで片や有名コンテスト優勝の腕利き、とまでは言う必要がないので伏せておく。
場合によっては自慢のように受け取られてしまうし、鼻につく可能性があるだろう。
「では、火神さんは将来料理の道へ?」
「昔は小さい頃は家を継ぐって張り切ってたし、親からも期待されて応援されてた。でも、今はちょっと気が変わってる」
「それは……ご両親に反対されませんでしたか?」
余程興味がある話なのか、冬華は真っ直ぐ朝陽に視線を向けて質問を投げかけて来た。
その眼差しは真剣そのもので、言葉には若干の熱が籠っているように感じられる。
何より、カラメル色の瞳には淡く憂慮の色が浮かんでいた。
「そりゃ最初は揉めたけど、最終的にはお前の人生だからって俺を尊重してくれたよ。一人暮らしも親が勧めてくれたし」
「……温かいご家族ですね」
「まあ、色々と感謝してる。こうして誰かに飯を振る舞える腕も身に付いたしさ」
どちらかと言えば無口な性分である朝陽は、無意識に饒舌になっている自分に驚きつつも話を続けた。
冬華が珍しく、と言うよりは初めて会話を持ち掛けて来たからだろうか。それとも、どこか憂いを帯びた寂しげな表情を浮かべる姿に思うところがあったのだろうか。
相槌と言葉が返ってくる会話は当たり前のはずなのに、それが"氷の令嬢"相手となるとどこか特別な気持ちがしてしまう。
結局、冬華がスプーンを置いて両手を合わせるまで何気ない会話はぼちぼちと続いた。
「腹の虫は収まったか?」
「……お陰様で。ごちそうさまでした」
調子に乗って少し揶揄うと、クールに大人の対応をされて面白くない。
それどころか、横目で冷たい視線が飛んできたのでこれ以上は控えた方がいいだろう。
「食器は水張りしてシンクに置いといて」
わかりました、と頷いた冬華が両手に皿とコップを持ってキッチンへ向かっていく。
これで冬華のお腹は満たされたはずなので、何の気兼ねなく勉強会を再開できるはずだ。
しかし、食事後直ぐに勉強を始めるのは少しばかり躊躇われる。
他の人がどうかは知らないが、朝陽は満腹感を感じているうちは何事も集中できないとの自負があった。
一人で問題を解く分にはそれでも構わないが、誰かに教えてもらうとなるとやはり気が引ける。
そういうわけで、十分ちょっとくらいは食休みを挟もうかと提案しようとした時に、カチャカチャと響く食器の音と騒がしい水音が聞こえてきた。
「……何やってんだ」
「何って……洗い物です」
当然でしょう、とでも言いたげな瞳で見つめられても困ってしまう。
ゴム手袋を身に付け、スポンジを手に持つ冬華を見れば何をしようとしているかなど一目でわかる。
聞きたかったのは、何故洗い物しているのかということだ。
「俺が後でやっとくから置いといていいよ」
「そうはいきません。このくらいはさせてください」
「……じゃあ頼むわ」
たった二日間の交流だが、こうなると冬華が頑として譲らないことは容易に想像ができる。
特に止める理由もないので素直に任せるのが得策と考え、朝陽はその様子を見守ることにした。
リビングに戻って勉強を続けていても良かったが、あえて冬華が洗い物をする様子を後ろからじっと見つめる。
きっかけは少しの違和感だった。
しかし、その小さな疑問の欠片はやがて確かなものとなり、さらには次々に他のピースと繋がり合う。
「なあ、氷室。俺も一つ聞いていいか?」
「……答えられる範囲の事であれば」
「お前、ちゃんと普段から自炊してる?」
ガシャン、と大きめの音がして、シンクにコップが転がり回る。
幸い大した高さではなく、コップもプラスティック製だったので然したる問題は無かったが、落とした当の本人には大きな問題があったようだった。
「……何故そんなことを?」
自分ではいつも通りクールに冷静に振る舞えていると思っているのだろうか。
何事もなかったようにコップを拾い上げて洗い物を続けた冬華の声は微かに震え、耳元がほんのり赤く染まっていた。
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