第38話 氷の令嬢と伝説再び
「そろそろ、お邪魔虫は厨房に戻るわね」
透子がそう言ったのは、朝陽と冬華がようやく窓から目を離した後だった。
久々に顔を合わせた分、かなりからかわれてしまったが、これでどうにか落ち着ける。
そんな朝陽の安堵を見抜いているかのように、透子は席を立つ前に口を開いた。
「朝陽、食事の時はそのコート脱ぎなさいよ?」
「……ん」
「あら、随分と曖昧な返事ね。何か隠し事でもあるのかしら?」
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「じゃあ、今脱ぎましょう」
「……今?」
「ええ、今」
明らかに動揺を見せる朝陽に対し、透子が有無を言わぬ様子で迫って来る。
どうやら冬華も透子と同じ意見のようで、無言の微笑みを向けられた。
普通に考えて、朝陽が羽織っているダッフルコートは室外用だ。
もちろん、朝陽もそれを分かっているが、その上で躊躇っているのだ。
理由は、コートの下に着用しているドレスコード。
何も、少々カッコつけたコーデを披露するのに、今更恥じらいを覚えている訳ではない。
格式が高い場所において、それなりの身なりを整える必要がある事を朝陽は既に両親から叩き込まれている。鏡の前で時間を掛けて整えた髪もその一環だ。
ただ一点、どうしても意識してしまう事があるのだ。
それは、迫られて動揺した透子に対してではない。
目の前でつぶらな瞳を向けている、冬華に対してだ。
「あっ、それって……」
母親の圧と少女の視線に観念してコートを脱げば、姿を現したのはネイビーのテーラードジャケット。
その襟元で光沢を放つ三本薔薇のブローチを見て、案の定、冬華が小さく反応を示し――
「あら? そのブローチは……」
何故か、透子までも反応を示した。
朝陽としては冬華とのお出かけなので、せっかく貰った――と言うより、押し付けられた?――ブローチを本来の形で使おうと考えてのことだった。
そのブローチを形付る三本薔薇に由来する伝説は、自分には関係ないと分かっていても少しだけ意識してしまう。
だから、直前までブローチを付けるか迷ったし、冬華と一緒に歩き出してからも表にするのを躊躇った。
しかし、いざブローチの存在を明かしてみれば、恥じらいよりも驚きが勝る展開に。
「それ、球技大会の優秀選手に送られる特別な賞品でしょ? 今でも恋愛成就の伝説は続いているのかしら」
「な、なんで母さんがそれを……」
「だって、その伝説、私と和明が発祥だもの。当時、氷がどうとか言われてた私に、和明がブローチを持ち出して告白してきたのよ。それで、私が和明の手を握り返したら、周りが勝手に伝説だと騒ぎだしたわ」
懐かしいわね、と透子は一人ごちて思い出に耽ているが、冬華はもちろん、朝陽も全く知らなかった。
両親の馴れ初めどころか出身校についても聞く機会がないし、今まで知ろうとも思わなかった。
それがまさか、こんな形で、衝撃の事実として突き付けられるとは。
「ねえ、朝陽。そのブローチ、誰から貰ったの?」
「……それは……その……」
凛とした瞳で真っ直ぐ透子に見据えられ、目を泳がせると冬華と一瞬目が合う。
その一瞬で、透子は何かを納得したようだった。
「三本薔薇の伝説は本当よ。私と和明、そして朝陽がその証明ね」
ポン、と朝陽の方を叩いた透子がようやく席を立つ。
「冬華ちゃん、朝陽をよろしくね。それと、また機会があればゆっくりお話したいわ。私たち、似た者同士な気がするし」
最後にそれだけ言い残すと、あたふたと言葉を探す冬華を待たずに、透子は厨房へと帰っていった。
どうやら透子は冬華を気に入ったようで、いつになく饒舌になっていた。
表情こそ終始真顔だったものの、声音は少し浮いていたように思える。
「ごめんな、騒がしい両親で。迷惑だったろ」
「いえ、そんなことは……寧ろ、楽しかったです」
「楽しかったって凄いな。俺はもううんざりだよ。食事を前にしてヘトヘトだ」
降参の意味を込めて両手を上げると、冬華は片手を口に当て、上品に笑う。
それから不意に、冬華は微笑みを浮かべたまま天井を見つめた。
「……朝陽くんはご両親に、とても愛されているのですね」
「あれは、からかわれてるんだぞ。父さんに至っては、暴走してただけだし」
「それこそきっと、朝陽くんを愛してる証拠ですよ」
だって、と冬華が短く言葉を繋ぐ。
「
冬華が紡ぐ、優しい声音に釣られ、朝陽も天井へと視線を移す。
その視線の先に映るのは、薄暗い店内を照らす大きなシャンデリア。
和明から何度も聞かされた。
この店は、朝陽をイメージしているのだと。
「……そうだな」
一度否定した言葉を、今度は肯定して返す。
両親から注がれる溢れんばかりの愛を朝陽は気づいている。
その愛を受け止めているからこそ、父親がいくら暴走しても、母親にいくらからかわれても、嫌な気持ちは一切しないのだ。
そんな一風変わった火神家の愛を、両親とは初対面のはずの冬華に見抜かれた事に、不思議と驚きはなかった。
「こちらアミューズになっております」
「あっ、どうも……って、おい」
「本当だ、朝陽があのブローチを……という事はやっぱり結――」
「和明、抜け出して良いとは言ってない」
「あっ、はい。すいません」
暴走シェフを冷徹パティシエが厨房へと引きずり戻す。
その光景に店内は大きく湧き、朝陽と冬華もまた、二人で顔を見合わせて小さく笑った。
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