第10話 雪解けの始まり
「何を探してるんだ?」
気づけばその小さな背中に言葉を投げかけていた。
元々声を掛けるつもりはなかったし、無視をされてもそれはそれでかまわない。
ただ、酒類を扱うコーナーを前にしてウロウロしている少女の姿を見れば、一応助け舟を出さずにはいられなかった。
「……何故あなたがここにいるのですか?」
「質問を質問で返すのかよ。お前と同じだ、買い物に決まってるだろ」
自分で話し掛けておいて何だが、九割くらいは無視を覚悟していたので、訝しんだ視線を向けられながらも冬華が反応を示したことに朝陽は少しの驚きを覚えた。
期待した返事では無いものの、会話をする意思はどうやらあるようなので淡々と事実を述べれば、「それもそうですね」と同じく淡々とした言葉が返ってくる。
互いに同じマンションに住む以上、最寄りのスーパーで顔を合わせることくらいは不思議な事ではない。
実際、以前に一度だけ朝陽はこのスーパーで冬華の姿を見かけたことがある。
思えば"氷の令嬢"が自炊をしないのではないかという疑念はその時から薄々と感じていた気もする。
今以上に全く関わりが無かった故に遠目から眺めるだけだったが、買い物かごいっぱいに積み上げられたレトルト食品やお惣菜の類は記憶に新しい。
しかし、今日は大分色が違った。
冬華が手に持っている買い物かごに目を向ければ赤青黄とカラフルな彩りに溢れ、野菜だけではなく冷凍ご飯や豚肉なども確認することができる。
「自炊するようになったんだな」
「まるで元々は自炊をしていないかのような発言はやめてください」
「悪い悪い。そういえばできないわけじゃないとか言ってたな」
料理ができないと思われることが嫌らしく、少しでも発言を間違えればジロリ、と冬華に鋭い目つきで睨まれる。
直ぐに軽く頭を下げて何とかその場を切り抜けたものの、一瞬だけ"氷の令嬢"を思わせる冷気を感じたので洒落にならない。
逆に言えば、今の冬華に"氷の令嬢"の面影はなかった。
言葉は素っ気ないし、表情は相変わらずの真顔なので完全にないとは言い切れないが、少なくとも学校で見せる他人を拒絶する雰囲気は纏っていない。
「で、結局何を探してるんだ。未成年は酒を買えないぞ」
冬華に今のところ会話を切り上げようとする様子はなかったので、朝陽は遠慮なく話を戻して気になっていた質問を投げた。
学年一の学力を誇る冬華が飲酒法を知らないとは考えにくい。
学校では品行方正と名が通っている裏で、実は隠れてお酒を嗜む不良少女という線も有り得ないと信じたい。
そうして冷静に考えていけば、冬華がお酒以外の何かを探していることくらいは見当が付く。
「……料理酒が見当たらないのです。もしかすると、売り切れてしまったのかもしれません」
少し躊躇う素振りを見せた後、冬華は今度こそ質問に対する答えを発した。
無視でも、ギャグでも、冗談でもなく至って普通の回答だった。
だからこそ、朝陽は思わず天を仰いだ。
(百パーセント料理初心者じゃねえか……)
みりんを買おうとして、年齢確認で引っ掛かってしまうのはまだ分かる。
しかし、料理酒が酒類コーナーに置かれていると勘違いしてるのは言い訳が効かない。
スーパーによっては料理用清酒が酒類コーナーに置かれている場合があるが、ここのスーパーは調味料コーナーに置かれている。
もし、日常的に自炊をしているなら絶対に知っているであろう情報だ。
「料理酒なら調味料コーナーだな」
色々考えた結果、朝陽は野暮なツッコミは控えて親切心だけを前面に出すことにした。
もし、小言を挟めば冬華がどんな反応をするかは目に見えている。
「……助かります」
ポツリ、と小さく呟いた冬華は足早に調味料コーナーへと歩を進めた。
すれ違う際に頬が少し赤らんでいたのは自分の壮絶な勘違いに気づいた故だろうか。
何にせよ、朝陽としてはこれ以上冬華に構う理由が無いのでさっさと自分の買い物を済ませていく。
今日の夜ご飯に使う予定の材料を中心に、日常的に飲む牛乳や残り少ない調味料のストックなどにも手を伸ばす。お一人様一本限りと銘打たれた特価品や消費期限が近いために割引されたお惣菜を買うことも忘れない。
そうして慣れた手付きで必要なものをかごに入れ、十分そこらでレジに並んだ朝陽の前に偶然冬華の姿があった。
「ここが一番空いてたからだ」
「……まだ何も言ってないじゃないですか」
まだ、ということはこれから何かしらは言うつもりだったのだろうか。
先んじて断りを入れれば、冬華は不服そうに眼を細めた。
両手で持っている買い物かごの中身は先程よりもバリエーションに富んでいて、その中にはきちんと料理酒の姿もあった。
「カレーを作るのか」
「……どうして分かったのですか」
「かごを見れば大体分かる」
はあ、と短く感嘆の声を漏らした冬華だが、一番上にちょこんと乗せられているルーを見れば誰でもカレーだと判断できるだろう。
カレー風味を出す為、別の料理にルーを使うことも考えられるが、にんじんやじゃがいも、玉ねぎなどを見ればほぼ確定だ。
そもそもの話、冬華に高度な料理が作れるとは思えないというのも判断材料になったのだが、口が裂けても本人に言えるはずがない。
「次の方ー」と直ぐにレジ係から声が掛かり、それ以上の会話は強制的に打ち切られた。
高級ブランドの長財布を何気なく取り出した冬華を後ろから眺めつつ、朝陽は自分の番を静かに待った。
「……持とうか、それ」
互いに会計を済ませ、帰路に着く途中で朝陽は再び冬華に声を掛けた。
もちろん肩を並べて一緒に歩いているわけもなく、後ろを振り返れば数メートル先にようやく姿が見える。
今度も単純に親切心から。
無視してくれても構わないが、一応声を掛けなければ気が済まない。
「……遠慮します」
僅かな間が空いた後、返ってきた言葉は一文字一句予想通りだった。
続けて「私は大丈夫ですから、気にせず先に行ってください」とも返ってくる。
しかし、ビニール袋を両手に歩く冬華の姿は全く大丈夫なようには見えなかった。
それもそのはず、複数の食材とボトル販売の調味料を一気に買えば五キロは軽く超える重さになる。
朝陽のような男手ならともかく、冬華のような華奢で細い女の子には一苦労のはずだ。
「遠慮すんな。こんな調子じゃいつまで経っても家に辿り着かないだろ。貸し借りの話なら一切考えなくていいから素直に頼っておけ」
少し早口になりつつも言葉を続け、冬華に近寄って手を差し出す。
決してカッコつけようとしていたり、下心を持っているわけではなく、嘘偽りのない善意による行為。
しかし、起こした行動の裏にどんなに素晴らしい思想があったとしても、結局は受け取り手の印象に全ては委ねられる。
「……私、前に構わないでくださいと言いましたよね」
酷く冷淡な声がした。
言葉に一切の熱がない。あるのは凍てつくような冷たい氷のみ。
初めて会話をした時と同じように、無表情かつ無感情で朝陽は容赦なく突き放される。
元々はこれが当たり前だったはずだ。
こちらが歩み寄れば、後ろに下がり、途中に固く厚い壁を築く。
それが、奇妙な縁でほんの少しだけ関わったことにより、すっかり忘れてしまっていた。
他人を拒絶し、心を閉ざした"氷の令嬢"。
その身に纏う冷気が朝陽の熱を急激に冷ましていく。
「看病の件は終わったはずです。これ以上、私に――」
「いいから貸せ」
「……えっ?」
冬華が更に冷気を強めようとしたところで、乱暴な言葉と行動があった。
"氷の令嬢"の顔に困惑の色が浮かび、小さく驚きの声がこぼれる。
その視線の先にあるのは朝陽の大きく頼もしい、熱のこもった手のひらだった。
「お前がどんな事情を抱えてるか知らないけど、今日だけは頼ってくれ。俺も前に言ったけどな、単純に放っておけないだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
あれこれと一方的に言い放ってからゆっくりと手を伸ばせば、ビニール袋は冬華の手からあっさりと離れた。
自分の分も合わせて合計四つともなると男の朝陽も流石に堪えたが、表情には出さずに平然とした風を装う。
(やりすぎたか……?)
時すでに遅しだが、いささか強引が過ぎる言動だったと反省するしかない。
朝陽も自分でどうしてこんな事をしたのか分からなかったが、気づけば口と身体が動いていた。
冬華とは会話をせず、関わらないと決めていたはずなのに、結局は何かと気に掛けてしまうという矛盾をどう説明すればいいのか。
恐る恐る視線を向けると、呆然と佇む冬華の頬が僅かに赤く染まっている。
その赤が何を表すのか、朝陽には見当が付かない。
「……それもお爺様の受け売りですか」
「ああ、そうだ。困ってる人を見たら迷わず助けろって口うるさく言われてきた」
少し照れ臭かったが、正直に答えれば冬華の口角が僅かに上がった。
笑顔でも、微笑みでもなく、ほんの少しだけ表情が和らいだだけ。
ただ、いつの間にか"氷の令嬢"は姿を消していた。
「……その、荷物……頼んでいいですか」
冬華が伏し目がちに、途切れ途切れの言葉を発する。
その言葉を一つ一つしっかりと受け取れば、ほんのりと温かい熱を感じられた。
ついさっきまで冷え切っていた全身を包み込む熱に、朝陽はむず痒い思いがしてならない。
「最初からそのつもりだ」
ぶっきらぼうに言い放ち、冬華に背を向けてマンションへの道を歩く。
暫くすると、身軽になった冬華が少し距離をあけながらも肩を並べた。
「……最後じゃありませんでしたね」
「何の事だ」
「お節介ですよ、お節介」
そういえばそんなことも言ったな、と一週間と少し前の事を回想する。
我ながら矛盾が多いと再認識すれば、朝陽は自然と苦笑をこぼすしかなかった。
「……本当、火神さんはお節介過ぎます」
「そう育てられたからな。実際よく言われるよ」
ふふっ、と可愛らしい笑い声が隣から聞こえた気がした。
しかし、どうしてか横を向くことはできず、朝陽は理由が分からない胸の高鳴りを感じながらマンションへ向かった。
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