第54話 氷の令嬢の冷たい過去
冬華を部屋に連れ込み、ソファに座らせてから暫くは沈黙の時間が続いた。
隣で俯く少女の表情は暗く沈んでいて、瞳には光が宿っていない。
まるで"氷の令嬢"に戻ったかのように、冷寒とした空気が漂う。
「何か俺に出来ることはあるか」
やがて、朝陽が最初に口を開いた。
色々と、無理やりが過ぎることは朝陽も自覚している。
ただ、どうしても放っておくことができなかった。
それは、目の前で冬華が倒れた時の状況と同じようで違う。
言葉数は少なかったが、はっきり助けを求められたのだ。
大丈夫じゃないです、と。
「……朝陽くんは、いつも私に手を差し伸べてくれますね」
ポツリ、と言葉を紡いだ冬華はやんわりと口角を上げる。
「……私の話を聞いてほしいです。私の……過去の話を」
目に映る弱々しい微笑は今にも崩れてしまいそうで、無理をしているのだとはっきり分かった。
だからこそ、朝陽は大きく頷く。
その冷たい氷の内へと、何度でも熱のこもった手を伸ばす。
「私にはずっと、お母さんしかいませんでした。実父は私が生まれる前に蒸発してしまったそうで。頼れる親族もおらず、シングルマザーとしてお母さんが一生懸命に私を育ててくれたんです」
ゆっくりと冬華が喋り始めたのは、かつて何度か口にした母親の話だった。
何となく、予想はしていた。
嫌な予感が現実味を帯びて来る。
「暫くして、私達の家に度々知らない男性がやって来るようになりました。氷室誠さんという方で、とても怖い人でした。無表情で、無愛想で。でも、実は凄く優しい人で。お母さんの前では、穏やかで優しい表情をいくつか浮かべていました。……そうして時を経ていく内に、私達は家族になったんです」
冬華の言葉を聞きながら、朝陽はふと一枚の写真を思い浮かべた。
冬休みの最終日に、珍しく冬華が忘れ物をした時の事。
あの時、偶然目に入った携帯の待ち受け画面に写る二人の大人。
あれはやはり、家族写真だったのだ。
冬華と、冬華のお母さん。そしてスーツを着た長身の男性は、再婚相手だったというわけだ。
「誠さんはいくつもの会社を営業している事もあって、再婚後の生活は一変し、私は何一つ不自由ない日々を過ごしていました。無償の愛と、恵まれた環境に身を置き、友達も沢山できました」
ここまで聞いた話は幸せな家族の物語といって良いだろう。
冬華の表情もどこか穏やかなものになっている。
ただ、やはり彼女は憂慮の色を滲ませていた。
「……でも、その幸せは長くは続きませんでした」
かつて、何度も同じ光景を見た。
冬華が家族の話をする時は、決まって幸せな表情の裏に暗い過去を覗かせていた。
何度も嫌な予感が頭に過った。
それが今日、明確な事実として朝陽の胸に突き刺さる。
「きっかけは三年前、お母さんが交通事故に巻き込まれて……帰らぬ人になってしまったんです」
冬華は母の死を簡潔に述べた。
その表情は歪み、声音が震えている。
「辛かったら話さなくていい」
本当は、思い出したくないはずだ。
この後にはきっと、どこまでも暗くて悲しい話が続く。
無理はさせたくない。
無理をしてほしくない。
その一心で声を掛けた朝陽の思いを冬華は受け止めて、ゆっくりと首を横に振った。
最後まで聞いてほしい。
薄っすらと涙が浮かんだ瞳がそう訴えている。
「それから、誠さんは滅多に家に帰らなくなりました。元々、忙しい人でしたが、お母さんが亡くなった後はハウスキーパーの方に任せっきりで。そして去年の夏、転勤の影響で私は一人暮らしを迫られました」
痛い。
「誠さんが愛したのはお母さんであって、きっと私には興味がなかったんです。今も、扶養義務があるから養ってくれているだけで……私のことなんて全く見ていません」
辛い。
「それは友達だと思っていた人たちも同じでした。お金が目的だったみたいで、私が誠さんから愛想を尽かされたことが分かると、一人、また一人と去っていきました」
苦しい。
「お母さんも、お父さんも、友人も。私の傍からみんな離れてしまいました。塞ぎ込んだ私は暫く学校にも行かず、一人で部屋に籠って。そうするうちに、考えてしまったんです」
冬華の話を聞く度に、様々な負の感情が朝陽を襲う。
「こんなに痛くて、辛くて、苦しい思いをするなら、最初から誰とも関わらなければいいって。一人で生きていけば、傷つかないで済むから……」
淡々と告げられた冬華の言葉を聞いて、朝陽はようやく"氷の令嬢"の真実を知った。
かつて朝陽も身内を失った経験がある。
両親が仕事で忙しい中、様々な事を教えてくれた祖父が亡くなった時。
心にぽっかりと穴が開いたような感覚を未だに覚えている。
その心の傷を癒してくれたのは家族であり、親戚であり、友人だった。
それなのに、そうであるべきなのに。
冬華は孤独を選ばざるを得なかったのだ。
心の傷を癒すことができず、一人で抱え込むしか道がなかった。
誰に対しても極端に距離を取り、必要以上の会話はせず、表情はいつも真顔のまま変わらない、氷の様に冷たいお嬢様。
"氷の令嬢"とは、深く刻まれた心の傷を守る手段。そして、その傷をこれ以上広げないための術。
それはどうしようもなく残酷な事実で、話を聞いているだけで胸が張り裂けそうな思いがした。
「勉強も運動も一人で生きていく術として身に付けました。料理も頑張ったんですけどね……結局、お母さんのように何でも一人でこなすことは私には無理でした。そうして、一人暮らしを始めた途端に身体を壊してしまって……」
ここから先の話は朝陽も共有している。
ただ、冬華の過去を知った今となっては受ける印象が全く違ってくる。
いったい、冬華はどれほどの痛みを、辛さを、苦しみを抱えてきたのだろうか。
今でも朝陽には全く想像が付かない。
例え、想像が付いたとしても自分に何が出来るのか。
その答えは
「……あの日、私は朝陽くんに出会ってしまった」
冬華が持っていた。
「風邪を引いた時、お腹が鳴った時、荷物が持てなかった時……三年間そうしてきたように、いつでも拒絶できたはずなのに、私はあなたの熱に触れてしまった。差し伸べられた手を握り返してしまった……」
「……お節介だったな」
「そのお節介に私は救われたんです。誰かと関わることの大切さを朝陽くんは教えてくれた。私にもう一度、人と関わる勇気を与えてくれた」
冬華が紡ぐ一言一言が朝陽の胸に直接届く。
そして、最後に。
"氷の令嬢"は氷を纏った心の底から。
「……だから、私は怖いんです」
今まで胸に秘めていた思いを叫んだ。
「また、誰かが離れていくのは嫌なんです……」
その悲痛な叫びを朝陽は全身で受け止める。
隣に座る少女の頬にはいつの間にか、透明な雫が伝っていた。
思えばかつて、冬華の涙を一度だけ見た事がある。
あの時、小さく口にした「懐かしくて」という言葉の意味が分からなかった。
ただ、今なら分かる。
きっと冬華は、朝陽の料理に母親の姿を見出したのだ。
長い間避けていた熱を再び感じて、思わず涙が流れてしまった。
今も、冬華は静かに感情を露にする。
冬華には泣いてほしくない、傷ついてほしくない。
吹けば消えてしまいそうな、儚い少女の姿を正面から見据え、朝陽はそう強く思った。
冬華には笑っていてほしい。
その願いを叶えるために、自分が出来ることは何か。
悩むこともせず、考えることもせず。
朝陽は頭に浮かんだ言葉を、想いを率直に伝えた。
「俺は離れない」
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