第32話 氷の令嬢と縮まった距離
お互いを名前で呼ぶようになったとはいえ、特別な変化が日常の中に起こる訳ではない。
朝陽が料理を教え、冬華が勉強を教える。
そんな生活が大きく変わることはなかった。
ただ、"氷"と形容される冬華の態度は少しだけ軟化したように思える。
噂話の表現を借りれば、最近はちょっとずつ氷が溶けているような気がした。
例えばそれは、夜ご飯を作っている最中の事だった。
「まだ動きがぎこちないな。包丁は前後に動かすときに切れるんだ。手前に引くか、奥に押すかしないと」
「……こうですか?」
「違う、もっとこう……」
力を入れずに流し込むイメージで――その様な抽象的なアドバイスが料理を苦手とする人間に通じるはずがない。
習うより慣れよとは少し違うが、こういうのは聞いて学ぶより、動きを身体で覚えた方が早い。
だから、朝陽は切るイメージを植え付けようと、包丁を握る冬華の手に自分の手を重ねようとして……それからピタリと止まった。
この細く小さな手に触れてもいいのだろうか。
そんな躊躇いが朝陽の行動を妨げた。
今までも、同じような葛藤をくり返しては最終的に言葉によるアドバイスに落ち着いていた。
今日もその例に漏れず、ゆっくりと手を下ろして口を開こうとしたのだが。
「おわっ、ちょっ……」
中途半端に伸ばした手が無理やり引き寄せられ、間抜けな声と共に姿勢が前のめりになる。
腕に伝わる仄かな温もりの正体。それが、いつの間にか包丁を置いた冬華の両手だと気付いた朝陽は驚きで目を見開いた。
「……ちゃんと教えてください。言葉だけじゃ伝わりづらいです」
目を背ける冬華の表情は分からないが、行動から意思は伝わって来た。
朝陽は跳ねる心臓の鼓動を落ち着かせるため、一つ大きな深呼吸を挟む。
それから、意を決して、冬華の右手にゆっくりと自分の手を添えた。
「朝陽くんの手、凄く大きいですね……それに、とても温かいです」
「……何言ってんだよ。集中して動きを覚えろ」
「そ、そうですね……。つい、誰かの手に触れるのは久々だったので……」
不意に呟いた冬華の言葉はどこか憂いを帯びているようで、また、何かを懐かしむような声にも聞こえた。
その哀愁に満ちた表情と声音に何が秘められているのかを朝陽は知らないし、今のところは聞くつもりもない。
「動かすぞ」
「……はい、お願いします」
しっかりと冬華の手を包み込み、少しだけ力を込めて前後に動かしていく。
(いつか、話してくれる日が来たりしてな……)
あくまで意識は包丁に向けつつ、朝陽は縮まった身体的な距離感の先に、まだ遠く思える精神的な距離感を感じていた。
そして、今日この瞬間も冬華の小さな変化が表れていた。
「ここは二次方程式の解の応用を使います。まず、アルファを代入して……って聞いてますか?」
「あ、ああ……ごめん、ぼーっとしてた」
「しっかりしてください。もう期末テストは目前ですよ」
「仰る通りで……」
冬華の言葉通り、期末テストはもう二日後に迫っている。
その為、自ずと勉強会はテスト対策になり、冬華は小テストを自作で用意してくれたりもした。
ここまで時間と労力を割いてもらっている以上、生徒である朝陽が気合を入れる必要があるのはもちろん分かっている。
ただ、どうしても最近は勉強会に集中できない理由があった。
「恐らく、この問題はテストに出題されると思います。あと、次のページの問三も……」
丁寧にテスト問題の予想を教えてくれる冬華の声が、すぐ隣から聞こえて来る。
一人暮らし用でテーブルが狭いとはいえ、これは近すぎる気がしないでもない。
今までは対面に座っていただけに、余計に距離が近く感じられた。
教科書のページをめくろうとすれば肩が触れ合うし、少し身体を動かせばフルーティーな甘い香りが鼻孔をくすぐる。
何も、それくらいのことで動揺するほど初心ではないが、どうしても意識は削がれてしまう。
「……今日はこの辺でおしまいにしましょう」
「えっ、もう終わるのか? いつもより大分早い気がするけど」
「だって、さっきから朝陽くんは上の空って感じですし。きっとこれ以上は集中が持たないでしょう?」
少し不満気に口を尖らせた冬華に図星を突かれてしまえば反論の余地がない。
「せっかく冬華が教えてくれてるのに申し訳ない……」
「いいんですよ、私の試験対策にもなっていますから」
両手で謝罪のポーズを取れば、冬華が僅かに口角を上げる。
その穏やかで柔らかい微笑みは、もはや珍しいものではなくなっていた。
名前を呼び合うようになってから、冬華はよく話すようになったし、よく笑うようになった。
丁寧な言葉遣いや持ち前のクールさは変わらないが、明らかに距離感が近い。
「それでは、今日は帰ります」
「ん、また明日も頼む」
「ええ、もちろん。集中力、高めておいてくださいね」
「ぜ、善処するよ……」
いつも通り、玄関まで見送ると、冬華が最後に意地の悪い笑みを浮かべた。
こういう表情は今までなら絶対に見られなかったものだ。
最近は、"氷の令嬢"が嘘だったかのような感覚を覚える。
その"氷"を溶かしているのは間違いなく、友達という目に見えない関係だろう。
一人になったリビングへと戻りながら、冬華に弄られたことを思い出して苦笑すると、カウンターに置いておいた携帯が短く振動した。
どうやら、メールが届いたらしい。
どうせ、千昭か日菜美あたりからだ。
そう思って、朝陽は送り主の名前を確認し、複雑な表情を浮かべた。
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