第31話 氷の令嬢と友達の定義
千昭と日菜美を自宅に招いた翌日、普段通りの学校生活――バカップルはニヤニヤとしていた――を過ごした後、夕飯時にインターホンが一度だけ鳴った。
お邪魔します、と玄関に入る冬華の様子はいつもと何ら変わらない。
"ただの隣人"と言われて冬華が気にするなど、やはり杞憂だった。
自分だけ、昨日の一件を意識しているのが馬鹿らしくなってくる。
そんな考えを、朝陽は食休みの時間を迎えた頃に改め直していた。
「……すいません、足手纏いになってしまって」
冬華が小さく謝罪の言葉を口にしたのを、朝陽は「気にするな」と短く端的に励ました。
同じようなやり取りを、今日は既に五回繰り返している。
ソファーの端に座る冬華の表情は明らかに暗い。
何も、冬華が料理に失敗して落ち込む姿を見るのはこれが初めてではない。
一日一ミスは当たり前だし、その度に冬華は悔しそうな表情を浮かべた。
しかし、それにしても今日の冬華はミスが多かった。
塩と砂糖を間違えたり、猫の手を忘れていたり。
油を床にぶちまけたと思ったら、手を滑らせてお皿をシンクに落とす。
幸い怪我をすることはなかったものの、一歩間違えれば血を流していた可能性もあった。
心ここにあらず、そんな言葉が今日の冬華にはぴったりと当てはまる。
「昨日のことを気にしてるのか?」
千昭の言葉をふと思い出して声を掛ければ、冬華ははっと息を飲んだ。
それから、すぐに気まずい沈黙が訪れる。
短くて長いこの静かな時間はきっと肯定を表している。
だから、朝陽は冬華の言葉をじっと待った。
話したくないことを無理に聞き出したりはしない。
そんな無遠慮な性格をしていたら、とうの昔に何故"氷の令嬢"として振る舞っているのか聞いていただろう。
そして、きっと拒絶され、心を閉ざされていたはずだ。
"氷の令嬢"ではなく、氷室冬華と今まで接して来たからこそ、今こうして同じ空間を共有している。
「……昨晩に問われた質問の答えが分からないんです」
やがて、俯いて黙っていた冬華が消え入りそうな声で言葉を発した。
昨晩に問われた質問とは日菜美が聞いたことだろう。
――ねえねえ、氷室さんは朝陽と友達なの?
あの時から今まで、冬華は答えるべき言葉を探していたらしい。
「……長い間、私は友達という関係を避けていました。誰とも関わらず、一人でひっそりと生きたい。そう、確かに思っていたんです」
頭に浮かぶ、どうして、いつから、といった疑問は心の底に押し留め、朝陽は冬華の言葉を黙って聞いた。
今、話しているのは"氷の令嬢"ではなく氷室冬華だ。
その身に纏う冷たい氷の内側から、熱の込められた本音を明かしてくれている。
「……それなのに……あなたに"ただの隣人"だと言われた時、何故か心に
小さな声でゆっくりと連なる言葉の数々を、朝陽は一つ一つ丁寧に受け取った。
どうやら、千昭の指摘は的を射ていたらしい。
冬華は"ただの隣人"という言葉をずっと気にしていた。
その理由は不透明で正確に把握することは叶わない。
けれど、同じような気持ちは朝陽にも理解することができた。
きっと、関わり過ぎてしまったのだ。
"ただの隣人"という言葉で関係を表すことに、猛烈な違和感と嫌悪感を抱いてしまうほどに。
「"ただの隣人"ってのはあの場を収めるために仕方なく言っただけだ」
「……本当ですか?」
「ああ、本当だ」
少しだけ顔を上げた冬華に、力強く肯定の言葉を掛ける。
昨夜、眠りにつくまで考え続けた。
火神朝陽と氷室冬華の関係について。
「……俺は、氷室を友達だと思っている。そっちがどう思っているかは知らないけどな」
ともだち――そのたった四文字を言葉にするのがどうも気恥ずかしかった。
頬が少しだけ熱を帯び、胸の鼓動がゆっくりと早まるのが嫌でも分かる。
ただ、その羞恥心は表に出さず、朝陽は僅かに目を見開く冬華の姿を見据えた。
一瞬だけ目が合って、それからすぐに冬華はまた俯いてしまう。長い髪に隠れて表情を伺うことはできなかったが、友達という言葉に反応を示したのは確かだ。
何をもって友達と言えるのか、それは朝陽にも分からない。
友達の定義は明確に定まっていないのだ。
その関係を証明してくれるものはどこにもない。
だけど、友達だと思うことは誰にでもできる。
氷室冬華は友達。
それが一晩考えた末に導き出した結論だ。
「私は……火神さんのことを……」
ポツリ、と冬華が言葉を紡いだ。
再び訪れた沈黙にはどこか温かい雰囲気を感じる。
「友達と……思いたいです……」
「……思いたいって何だよ」
「だって、友達という関係を証明するものは存在しないじゃないですか……」
似たような考えを持つものだ、と朝陽は驚くと共に少し笑った。
そして、困ったものだと頭を悩ませる。
友達の証明――それは形にすることはできない、目に見えない繋がりだ。
ただ、一つだけ。
友達だと思っていることを相手に伝える手段なら覚えがある。
「……冬華」
なるべく平常心で端的に言葉を発したつもりが、大幅に声音がぶれてしまった。
やっぱり、いつになっても恥ずかしいものだと朝陽は無意識に頭を掻く。
日菜美に名前呼びを強要された時も、大分抵抗があったことを覚えている。
それを自発的にやるとなると、とてもじゃないが相手の反応を見ることができず、朝陽は思わず冬華から目を逸らした。
「友達を下の名前で呼ぶってのはよくあるだろ。……嫌ならやめる」
友達の証明になると思う――そんな無言のメッセージを含めて言葉を送る。
冬華がどんな表情を浮かべているのか、どんな気持ちで言葉を受け取ったのかは分からない。
暫しの静寂の中で朝陽の耳に声が届いた。
小さくて弱弱しい……透き通った美しい声だ。
「……朝陽……くん」
自分の名前を呼ばれ、反射的に朝陽は声の主へと振り向いた。
そして、ぴったりと目が合う。
冬華は真っ直ぐと揺らがぬ視線を朝陽に向けていた。
「私と……友達になってくれますか?」
絹のように美しいグレージュの髪に隠れた頬は、今までにないほど真っ赤に染まっていた。
宝石を思わせるカラメル色の瞳は透明な薄い膜を張って、キラキラとした輝きを見せている。
可愛い、そんなシンプルな感想が朝陽の脳内を支配した。
心臓がとてつもないスピードで脈を打つ。
身体の内側から温かい熱が込み上げてくる。
鏡を見ずとも、今の自分が冬華と同じ色をしていることは明確だった。
「……もちろん」
いったいどれほどの時間、冬華に見とれていたのだろうか。
ようやく正気に戻った後、朝陽はぶっきらぼうに短く言葉を返した。
お互いの名前を呼ぶだけで、特別な気持ちになるのは何故だろうか。
心の中で渦巻く、ふわふわとした感情の正体は何なのだろうか。
本当に、分からないことだらけだ。
最近は一人では解くことができない難問に遭遇することが多い。
それでも一つだけ、自信を持って答えを示せる問題がある。
火神朝陽と氷室冬華は友達、この解答には大きな赤丸がつくだろう。
こうやって、一つ一つゆっくりと答えを見つけていけばいい。
「明日は集中して調理してくれよ? 油の掃除とかもう御免だからな」
「な、なぜ今その話を掘り返すのですか……」
「さっきまで暗い顔してたからな、中々言い出せなかったんだよ」
今の冬華の表情はとても穏やかで、いつになく優しいものに思える。
一時間前の大惨事を指摘したことで少し拗ねてしまったがこれでいい。
暗い顔をしてたから、というのはそれっぽい建前だ。
本当は、このむず痒い気持ちと気恥ずかしい雰囲気を変えたかったから。
今まで通り会話をすることで、全身に回る熱と脈打つ胸の鼓動を落ち着けようとした。
ただ、残念ながら朝陽の思惑通りにはならなかった。
「……朝陽くんは色々とイジワルです」
上目遣いで放たれた言葉に、朝陽は衝動的に口を開きかけた。
今度こそ、可愛いの四文字が喉元まで迫り、ギリギリのところで留まる。
(反則だろそれは……)
僅かに尖らせた桜色の唇や、こちらを見つめる愛嬌のある瞳が朝陽の心を惑わせる。冬華は時々、無意識に年相応の幼さが見える行動をするので心臓に悪い。
何より、自分で始めたことながら、下の名前で呼ばれることにまだ到底慣れそうになかった。
そして、慣れないという点は冬華も同じらしい。
朝陽くん、と呼んだ後にほんのりと頬を染めた冬華は、照れ隠しなのか淡い微笑みを浮かべた。
その表情がまた可愛らしく、いよいよ直視できなくなった朝陽は目を逸らして勉強会の準備を始めた。
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