第33話 氷の令嬢とテスト後の約束


「朝陽くん、もしかして疲れていますか?」

  

 期末テスト前日の勉強会で、何の脈絡もなく冬華がそう聞いてきた。


 疲れているか、と聞かれても朝陽自身はこれといった疲労を感じていない。

 体調は万全のはずだし、心身ともに良好なコンディションなはずだ。


「どうしてそう思ったんだ?」

「それは……いつもより、ため息が多いなって」

 

 いつもより、ということは普段からため息をつきがちなのだろうか。

 自覚はないが、今日はその回数が特に多かったようで、冬華が心配そうな視線を向けて来る。

 

「少しだけ、休憩を入れましょうか」

「別に、俺は疲れてるわけじゃないから続けても大丈夫だぞ。ため息は多分癖みたいなものだ」

「それでも休憩はどのみち必要です。根を詰め過ぎてもいけませんし」


 どうやら、問答無用で授業は休憩に入るらしい。

 先生役の冬華はさっさと立ち上がって、迷いのない足取りでキッチンに向かってしまった。その手には空のカップが二つ収まっている。


「何を飲みますか?」

「じゃあ、コーヒーで。悪いな、俺の分まで」

「お気になさらず。朝陽くんはそこで休んでいてください」

「休めって言われても、本当に疲れてないんだけどな……」

 

 慣れた様子でコーヒーを淹れる冬華の姿を眺めながら、朝陽はお言葉に甘えて一息つかせてもらった。


 ソファーに全体重を預け、無気力にぼーっとしていると、今度は意識的にため息が漏れる。

 これは決して、疲れているわけじゃない。

 ただ、少々面倒くさい事に巻き込まれている最中なのだ。


 ため息が多い、という指摘はその影響で間違いないだろう。


「お待たせしました」

「ん、サンキュ」


 暫くすると、冬華が白い湯気が立ち昇るコップを持って来た。


 少し冷ましてから、一口啜ると、コーヒー特有の苦みの中に仄かな甘みがじんわりと広がる。

 朝陽がよく好んで飲む、いつもの味と全く同じだ。


「……美味い」

「それは良かったです。確か、砂糖一つとミルク一つでしたよね?」

「そうだけど……よく知ってたな」

「朝陽くんが、いつも飲んでるので覚えました」

「本当、そういう記憶力はずば抜けてるのに……」


 料理は何で、と言いかけて朝陽は口を固く閉ざした。

 もし、言葉を続けていたら冬華が頬を膨らませてしまうのは目に見えている。


「こ、コーヒーを淹れるのは上手いんだな」


 慌てて会話を軌道修正したが、冬華は既に訝しげな視線を向けて来た。

 

「さっき、何か言いかけませんでした……?」

「いや、そんなことは――」

「絶対、またイジワルな事を言おうとしてましたよね。怒らないので隠さず言ってください」

「その言い方は結局怒るやつだろ……」


 それに、高確率で不機嫌にもなるだろうから、可愛らしく目を細めて詰め寄られたところで黙秘を貫くしかない。


 さて、この場をどう収めようか。

 そんな事を冬華の追及を逃れながら考えていると、タイミング良く携帯の着信音が鳴った。

 

「……朝陽くんの携帯からですね」

「電話が来たっぽいな。ちょっと出ていいか?」

「ええ、それはもちろん……」


 逃がすのは惜しいが、追うことができない。

 そんな、逃げていく獲物を見つめる肉食動物のような鋭い目をした冬華からそそくさと離れて、朝陽は携帯片手に洋室へと向かった。

 

 そして、そこで初めて電話を掛けて来た相手の名前を確認して――朝陽は大きな大きなため息をついた。




「大分早かったですね……お母さんからの電話だったのでは?」

「聞こえてたか。そう、うちの母親から」

「なら、もう少し話しても良かったんじゃ……」

「いいんだよ、大した用件じゃなかったし」


 時間にして一分足らずで洋室から戻って来た朝陽は、どこか暗い表情をした冬華に迎えられた。

 どうやら、母親への対応に色々と思うところがあるらしい。

 

 思えば、冬華は家族関係の話になると、いつも哀愁を帯びた表情を浮かべる。

 どことなく、家族と折り合いが悪いような雰囲気は感じるのだが、それは推測の域を出ない。

 もちろん気にはなるが、話したくないことを無理に聞き出したりはしない。それが、朝陽の冬華への接し方だ。


 ただ、目の前で沈んだ表情を浮かべる少女を放っておくわけにもいかない。


「……本当に大した事じゃないんだぞ? メールの返信を催促するためだけに電話してきたんだよ」

「メール、ですか?」

「昨日送られて来たんだけどな……ほら、これ」


 見られてマズいものでもないので、朝陽は問題のメールを表示して冬華に見せることにした。

 そこには、たった一文が簡潔に書かれている。


『クリスマスイブにうちの店の予約取っておいたから、意中の子でも誘って来なさい』


 昨日から無意識に漏れるため息の原因は十中八九、母親から送られてきたこのメールだ。

 

「うちの店というのは?」

「両親が一緒に経営してる店。soleilソレイユ  levantルヴァンってとこ」

「そ、ソレイユルヴァンですか!?」

「もしかして、知ってるのか?」

「知ってるも何も、三ツ星レストランの中でも格式高い名店じゃないですか」

「何かそうらしいな」

「そうらしいなって……。朝陽くんのご両親、とても凄い方ですよ」

 

 同じことを千昭と日菜美にも言われたが、身内故にあまりピンと来ないのが正直なところだ。


 今さっき電話を掛けて来た相手が超一流のパティシエだとしても、朝陽にとっては母親以外の何者でもない。

 それも、何かと息子の頭を悩ませる気難しい母親だ。

 

「何故、返信しないのですか? 答えは決まってるじゃないですか」

「そうだな……。また電話が掛かってきそうだけど、ここははっきり断りのメールを――」

「断るのですか!?」

「何だよ、さっきからやけにテンション高いな」

「だ、だって、ソレイユルヴァンって普通は半年前から予約が必要なんですよ? それを断るなんて……」

「そう言われてもなあ。誘う相手がいないからどうしようもない」

 

 生憎、朝陽は聖なる夜を共に過ごす相手などいない。

 

 毎年、このシーズンになると母親から同じ文面のメールが届くので、恋愛沙汰に縁のない朝陽としては悩みの種になっていた。


(冬華を誘う……ってのは流石にな……)


 昨日、母親からメールを見た時に、真っ先に冬華の顔が浮かんだ。


 ただ、クリスマスイブに三ツ星レストランで男女二人きりのお出かけだ。

 それに、メールの内容を見せてしまった以上、意中の相手という言葉を意識せざるを得ない。


 ここから、一緒にどうかと誘うには如何せんハードルが高すぎる。

 

 何より、せっかく近づいた友達という関係を壊してしまう恐れがある。

 そんな、不安感が一瞬だけ浮かんだ選択肢を強く否定していた。


 だから、朝陽はいつも通り、母親のありがた迷惑な厚意を断ろうと考えていた。

 しかし、ここに来て、考えもしなかった新たな選択肢が浮かび上がる。

 

「……私がご一緒するのはダメでしょうか」

「……俺とってことか?」

「あ、朝陽くん以外誰がいるのですか……」


 突然の提案に驚いて視線を向ければ、冬華が俯いてぷるぷると震えている。


「やっぱりダメですかね……。条件に当てはまってないですし……」

「いや、意中の人ってのは別に気にしないでいい……冬華が行きたいなら、一緒に行くか?」

「よ、よければ是非!」」


 パッと明るくなった表情にキラキラと輝く純粋無垢な瞳。

 その柄にもなくテンションが高い冬華の姿に、朝陽は思わず胸が熱くなるのを感じた。

 

 意中の相手、そんな言葉と相まって気恥ずかしさが込み上げてくる。

 冬華も同じ気持ちなのだろうか、はっと我に返ったように落ち着きを取り戻すと、再び俯いて静まってしまった。

 

 この雰囲気は大分気まずい。

 そう思った朝陽は咄嗟の思考で会話を続けた。


「そもそも、二十四日空いてるのか? 男子から誘われまくってるって聞いてたぞ」

「それは……知らない方ばかりですし、お断りさせていただきました」」

「あー、まあ、そんな気がしてた」


 心の中で、ご愁傷さまですと敢えなく散っていた男子に手を合わせる。


 恐らく、長期休暇前に冬華とお近づきになろうという算段だったのだろう。

 期末テストが終われば、テスト返却日及び終業式を迎えてすぐに冬休みだ。

 この時期は、クリスマスを利用して異性をデートに誘う生徒が多い。

  

 その人気の筆頭が他ならぬ冬華だということは千昭から、ニヤニヤとした憎たらしい笑みと共に何度も聞かされていた。

 

 "氷の令嬢"が少しだけ溶けた、と噂されるようになってから、球技大会での大活躍を経て、冬華の人気はまた白熱しているらしい。

 そこで、以前は近寄ることすらできなかった男子たちが勇気を出して冬華に言い寄ったという形だ。


 ただ、少し穏やかになったとはいえ、冬華はまだ他人を拒絶して心を閉ざしている。

 今の反応を見る限り、これから先も涙を呑む男子生徒が増える一方だと容易に予想できた。

 

 その冬華とクリスマスイブを一緒に過ごす事になるのだから、朝陽は不思議な気がしてならない。


「……クリスマスイブ、楽しみにしてますね」


 頬を淡く桜色に染めて、ニコリと微笑む冬華の姿は実に可愛らしく、愛らしい。


 あくまで友達として、ということは分かっている。


 ただ、予想もしなかった約束を前に、否応もなく胸が高鳴り始めていた。


「……その前に、期末テストを乗り越えなきゃな」


 そんな、真面目な意見を述べなければ、このむず痒い気持ちが収まりそうにない。


 心を落ち着けようと、コーヒーを一気に啜る。

 そういえば、冬華が淹れてくれたんだっけと思い出すと、口の中に普段よりも濃厚な甘さが広がった。

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