第34話 氷の令嬢と初めての待ち合わせ
「オッケー、ASAHI。成績を上げる方法を教えて」
「ひたすら勉強」
「……他には?」
「成績上げるのに勉強以外の方法なんてない」
「そ、そんなあ……」
人影がまばらになった教室の隅で、千昭が情けない声を発する。
終業式を終えた放課後、実質的に冬休みが始まったというのに、その表情は明らかに芳しくない。
千昭が珍しく暗い顔をしている原因は、片手に握られた成績表で、そこには目を背けたくなる凄惨な数字が刻まれていた。
どれも平均点を大幅に下回る酷い成績だが、この程度でへこたれる男ではない。
問題なのは、その中でも一際目立つ赤色の文字。
すなわち、補習対象となる赤点を示すものだ。
「まさか、赤点を取る日が来るとは……」
「むしろ、今まで取らなかったのが不思議なくらいだけどな。これに懲りたら、日菜美との時間を少しは勉強に使ったらどうだ」
「……朝陽は俺に死ねと言っているのか?」
「意訳がすぎるだろ。とにかく、成績上げたかったら勉強あるのみ。勝手に学力が上がるなんてうまい話はない」
「やっぱそうだよなー……学年十位が言うと説得力が違うわ」
「……茶化すなら帰るぞ」
「いやいやいや、違いますやん! 今のはただ褒めただけですやん!」
何故かエセ関西弁になっている千昭を軽く叩いて、朝陽は手元の成績表に目を落とした。
そこには千昭とは対照的に、平均点を大きく上回る点数が並んでいる。
中でも特に目立つのは苦手科目としていた数学と英語の高得点。
過去最高順位を叩き出した前回のテストから、さらに成績を上げた要因は間違いなくこの二科目だ。
そして、元を辿れば苦手科目が得意科目になるまで教えてくれた冬華のお陰ということになる。
「なあ、やっぱ誰かに教えてもらうのって成績上がるの?」
「……何だその質問」
「前に朝陽が言ってたじゃん。高得点の秘訣を聞いた時」
やけにタイムリーな話題を振られ、少し反応が遅れると、千昭の表情が分かりやすく変わった。
さっきまでの落ち込みが嘘だったかのように、今はニヤリと楽しそうな笑みを浮かべている。
「おい、その笑みは何だ」
「別にー? 朝陽の成績が伸び始めたのって夏休み明けからだなーと」
「……帰る」
「ちょっ、もう少し待っ――」
「ちーくん、お待たせー! あれ、朝陽も残ってたの?」
千昭の静止を振り切り、席を立ったところで教室に元気で明るい声が響いた。
教室に残っていた男子の集団が、その場違いな騒がしさの元凶へと疎ましそうな視線を向け……すぐにその目が驚愕と羨望の色へと変わる。
「もしかして朝陽もこの後誰かとデートするの? あっ、もしかして――」
「違う、朝陽はヒナが来るまで俺の話し相手になってもらってたの」
「でも、噂に寄ると――」
「それ以上はやめとけヒナ! 今の朝陽を弄っちゃダメ!」
何やら勝手に味方をしてくれる千昭に口を無理やり押えられ、日菜美がモゴモゴと未知の言語で喋り始める。
その楽しそうな微笑ましい光景に、今度こそクラスの男子から"疎ましい"の意味が込められた視線が飛んで来た。
もうすっかり見慣れてしまったので、朝陽はクラスメイトと同じ気持ちにはなれないが、同情することは辛うじてできる。
今日は終業式で、答案返却日で、冬休みの始まりで。
そして、聖なる夜――クリスマスイブなのだ。
「また来年、かな。じゃあな、朝陽」
「ああ、また来年」
「初詣は一緒に行こうね!」
「ん、予定空けとくわ」
千昭と日菜美と手を振って別れる。
まだお昼前だが、制服を着たまま夜まで遊ぶらしい。
私服はクリスマスに取っておく、二人はそんな事を言っていた。
デート、そんな言葉が浮かんでは消える。
日菜美が言い掛けていた事は半分あっていて、半分間違っている。
この後、冬華と二人で出掛けるが、それはデートではない。
親に押し付けられた、有難迷惑な招待状を消化するだけ。
朝陽はまだ明るい空を眺めながら、友達との待ち合わせに万が一でも遅れないよう、少し早めの帰路に着いた。
ピンポン、と来客を伝える電子音が静かに鳴った。
それは、いつもと同じ音のはずなのに妙な緊張感を伴う。
外行き用、それも格式高い場所用の服装をしているからか、全身の動きがどこかぎこちない。
伸ばしっぱなしのボサボサな髪では流石にと、ワックスで自分なりに整えたせいか、頭部にも何とも言えない違和感がある。
とにかく、今日は心身ともに落ち着かない。
「……お待たせしました」
少し熱のこもった掌でドアノブを捻れば、まず最初に透き通る声が聞こえた。
その次に、冷たい冬の風が頬を撫でる。
そして、ようやく視線の先にグレージュの髪を靡かせる少女の姿を捉えた。
夜に映えるネイビーのサテンワンピースに、淡く施された薄化粧。
背景の月と星に照らされ輝く冬華の姿に朝陽は一瞬で目を奪われ――
「……綺麗だな」
そんな、言葉が自然と漏れた。
元から、冬華が並みならぬ美貌の持ち主だとは認識していた。
"氷の令嬢"というあだ名に相応しい、大人びた美しさ。
その裏側に隠れた、年相応のあどけない可愛らしさ。
今までも、何度か冬華の美貌を称える言葉を口にしかけた。
ただ、実際に言葉にしたのは初めてだった。
半ば無意識に、気づけばその言葉を口にしていた。
それほどまでに、目に映る冬華の姿は美しかった。
「……あ、ありがとうございます」
伏し目がちに言葉を発した冬華の頬はほんのりと赤く染まっている。
今度は、可愛いという言葉がパッと浮かんだ。
ただ、その四文字が声として形になる前に、冬華がポツリと小さく呟いた。
「朝陽くんも……カッコいいと思います」
「……どうも」
頬をさらに赤く染めながら、ゆっくりと俯いた冬華に対して朝陽は短く言葉を返した。
突然の誉め言葉に思考が纏まらず、それしか言えなかったというのが正直なところだ。
今になって、ようやく自分が口走った言葉に羞恥心を覚えたというのもある。
これは断じて恋人同士のデートではない。
親に押し付けられた、有難迷惑な招待状を消化するだけ。
そう、頭では分かっている。
分かっているのに、思考はうまく纏まらず、身体は思うように動かない。
「……行こうか」
「……そうですね」
朝陽が促して冬華が応じるまで、現実の時間にしては数秒だった。
ただ、朝陽にとってその時間はとても長く感じられた。
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