第83話 弟子入り
「私を弟子にしてください」
土曜日の午後、冬華に突然そんなことを言われ、朝陽はぎょっと驚いた。
「急にどうしたんだ……」
そもそも、今日は夜に会う予定だったのだ。
それが、お昼過ぎにインターホンが鳴って今に至る。
朝陽が困り顔で問いかけると、冬華は一枚の紙を差し出してきた。
「家庭科のプリント?」
朝陽の通う学校は音楽や美術、書道といった芸術科目を三年間を通して学ぶとともに、情報や家庭科といった専門科目が設けられている。
去年は情報の授業で簡単なプログラミングなどを学び、今年は家庭科の授業を受けることになっていた。
そして家庭科は基本的には座学だが、時々は実習がある。
「来週、調理実習がありますよね」
「そうだな。エプロン持参って書いてある」
「そこじゃなくてですね……ほら、ここです」
冬華が指差した場所に目をやると、当日の詳しい授業内容が書かれていた。
「へえ、クッキーを作るのか」
どこか他人事のように呟く朝陽に、冬華は少しだけ顔をしかめる。
「朝陽くんには楽勝かもしれませんが、私にとっては由々しき問題なんです」
「なにが問題なんだ? 前の調理実習は普通にできてただろ」
中間テスト前にも家庭科で実習があり、その時は炊き込みご飯を作ることになった。
料理を苦手としていた冬華だが、数か月にわたる朝陽の指導で今や一般的なレベルには達している。家庭科の授業で躓く程度ではないし、そもそも調理実習は班に分かれて役割分担で調理するのだ。
ほんの少しは心配していたが、冬華は見事にやりとげ、クラスメイトから褒められていた。
「料理も上手いんだね、って言われてめちゃくちゃ喜んでたの覚えてるからな」
「それは忘れてください……」
恥ずかしそうに頬を染めた冬華は、本題を思い出したようで、控えめに頭を振って切り替える。
「確かに前回は何とかなりましたが、今回は話が違います」
そう言って、冬華はキッチンに置いてあるレシピ本を一冊取り出した。
「私、お菓子作りを教えてもらってないです!」
ケーキやマフィン、クレープなど美味しそうなお菓子が並ぶレシピ本の表紙をパンッと叩き、冬華は声を上げて主張した。
「だから、弟子にしてくださいって?」
「それは言ってみたかっただけです」
あっさりと流した冬華は、続いて口を開く。
「私、何度かお願いしたんですよ? お菓子を作ってみたいって」
「……まあ、うん」
「それなのに、いつもはぐらかされてばかりで……」
なんだか今日の冬華はいつもより強気らしい。
こうして強く主張されるのは、頑なに好意を受け取ろうとしなかった昔の冬華に近い。
けれども、前と違って雰囲気は優しいものだ。むぅと頬を膨らませる姿は可愛らしいとすら思える。
「朝陽くん、何かとその話題を避けません?」
ジト目の冬華に図星を突かれ、朝陽はすかさず目を逸らした。
すると、逃がさないぞと冬華が視線の先に映り込んでいる。
そうしてしばらく左右に攻防を繰り広げ、やがて二人はぷっ、と吹き出した。
「なんだこれ……あー、おもしろ」
「二人揃って、おかしいですね」
ひとしきり笑い合ったあと、朝陽は観念したように口を開く。
「お菓子作り、あまり得意じゃないんだよ。だから偉そうに口出せないし、教えるのもなんだかなあって」
「意外ですね。朝陽くん、料理ならなんでもござれかと」
「前も言ったけど、俺は素人に毛が生えた程度だから。親に影響をちょっと受けてるだけだよ」
そう自虐的に笑うと、冬華はぶんぶんと頭を振った。
「私からしたら、朝陽くんはプロ並みに上手いです」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「自信持ってください、朝陽くんが一番です!」
「そ、それは流石に言い過ぎじゃね……」
朝陽が自分を下げると、冬華は否定して褒めちぎってくれる。
それを最初はお世辞だと受け取り、言わせて申し訳ないくらいに思っていたが、今では大分素直にお礼を言えるようになった。
冬華が本心から言ってくれていることが伝わるし、何より好きな人が褒めてくれるのがとても嬉しい。
「……そこまで言われたら断れないよな」
「じゃあ、弟子にしてくれるのですね!」
「それ、まだ続いてたのかよ」
また二人で顔を見合わせ笑い、それからキッチンに移動する。
「じゃあ、早速始めるか」
「はい、お願いします」
せっかくなら調理実習に向けてと、クッキーのレシピを開く。
「まずは砂糖とバター、それから……」
朝陽が言う手順通り、冬華は熱心に材料を混ぜていく。
その真剣な姿を隣から見守り、自然と小さく口角が上がる。
「……私の顔に何かついてます?」
「久々に言われた」
「久々に見つめられたので」
こういう穏やかで優しい時間がいつまでも続けばいいのに、と朝陽は微笑む。
そんな朝陽が珍しかったのか、冬華は少し目を見開いて、それから笑い返した。
今すぐ好きだと伝えたいと思う一方、もう一歩を踏み出せない。
それは朝陽の気持ちはもちろん、恋敵の存在が関わっていた。
しかし、今はネガティブな気持ちを忘れておく。
冬華と一緒にいる時間を大切にしたいし、何より冬華自身が許してくれないような気がした。
「このくらい混ぜればいいですかね?」
「うん、上出来。次はこっちをひたすら混ぜる」
「了解です!」
楽しそうにクッキーの生地を作る冬華は、とてもとても可愛かった。
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