第90話 二人ごと


 その日は晴れ予報だと言うのに、雲行きが怪しく、今にも冷たい雨が降りそうな天気だった。


 どんよりとした雲が漂う空に、陽気な音色を響かせるチャイム。


「冬華」

 

 たった一言、言葉を発するのにやけに緊張した。

 呼び止められた少女は、声で誰かを察したのだろう。

 ピタリと足を止め、振り返ることはせずその場に立ち尽くす。


 放課後、学校の昇降口で。

 いの一番に教室を出た冬華を追って、朝陽はその背中に声をかけた。

 

「一緒に帰ろう」


 ただそれだけの誘いに、冬華は俯きしばらく黙り込んでしまう。

 やがてはほんのわずかに首を横に振って、僅かに口を開いた。


「すいません、今日は急ぎの用事があるので」


 震える声音はとてもじゃないが平常心だとは思えない。

 とぼとぼと歩き出す冬華は弱々しく、長い黒髪が寂しげに揺れている。


 いつの間にかすっかり空は暗くなり、夏場というのに冷たい外気がきゅっと胸を締めた。

 

 じめじめとした天気に嫌気がさし、全てをネガティブに捉えててしまう。


 そんな自分が一番嫌だった。


「話がしたいんだ」


 誰もいない通学路を歩く冬華と、その後ろを一定の距離をあけてついていく朝陽。


「俺が冬華を怒らせたり、迷惑かけてたら悪い。避けられても仕方ないけど……」


 冬華の足取りが重くなり、朝陽は歩くスピードを上げる。


「このまま離れていくのは嫌だ。一度でいいから、言葉にしてほしい」


 二人の距離がまた一歩、また一歩と近づき、足音が止まった。


「俺は冬華と一緒にいたいから」


 心の底から溢れた本音は、熱を帯びて確かに届く。


 ポツポツと小さな水滴が地面を濡らして、冬華がゆっくりと振り向いた。


 潤んだ瞳が真っ直ぐに朝陽を捉える。

 その目が訴える感情は読むことができない。

 

「そんなの、私だって……!」


 震える声音は、雨音に攫われた。

 激しい勢いで降り注ぐ雨が、朝陽と冬華を容赦なく襲う。


「……傘持ってるか?」

「……ないです」


 かくして二人はずぶ濡れになりながら、近くの公園に駆け込んだ。

 

 屋根があるベンチに座り、しばしの雨宿りを決め込む。


「なっ、なにしてるんですか!」

「なにって、制服絞ろうと思って」


 内側までぐっしょりと湿った制服に嫌悪感を覚え、朝陽がシャツを脱いだ先に、慌てふためく冬華が目に入る。

 細身ながらも筋肉質な肌は、冬華には少々刺激が強かったらしい。


「冬華もシャツ……」

 

 そこまで言いかけて、朝陽の声が消えかけていく。

 雨に濡れたシャツが張り付き透けて、見てはいけないものが目に入った気がしたのだ。


「……あっ」


 冬華も事態に気付いたのだろう。

 咄嗟に両腕を交差して、自分の身体を抱きかかえるように縮こまった。


 薄暗い公園のベンチで、耳まで赤く染まっているのがはっきりとわかる。


「こっち見ちゃダメです!」

「悪い、マジでなにも見てないから」

「……本当ですか?」

「……うん」

「なんで顔を逸らすんですか」


 恥ずかしさでいっぱいになっている冬華を横目に、朝陽は記憶を消して落ち着こうと試みる。


「なにかタオル的なもの持ってるか?」

「ハンカチならありますけど……」

「それで髪と身体、軽く拭いとけ。濡れたまんまだと風邪ひくぞ」


 話を変えようと必死に頭を回転させて口に出たのは、いつも通りのお節介だった。

 

 冬華はきょとんと呆けた顔をして、それから吹き出すように笑い始める。


「ずっと前から思ってたけど、朝陽くんってお母さんみたい」

「それ、別に嬉しくないからな」

「喜んでください。とっても褒めてますから」


 ケラケラと笑う冬華に、不服そうな顔をする朝陽。


「……ふふっ」

「いつまで笑ってるんだ」

「だって、なんだかおかしくて」

「……そうだな」


 あれだけ距離が離れていたのに、気付けばいつも通りに戻っている。

 自然とはにかんでしまうのは、それだけこの日を待ち望んでいたのだろう。


「悩んでたのが馬鹿らしくなってきました」


 再び切り出したのは、冬華のほうからだった。

 

「私、朝陽くんに怒っても、嫌ってもないですよ。絶対に、それだけはあり得ません」

「でも、避けてただろ」

「それは……ごめんなさい。私の問題なんです。気持ちの整理がつかなくて」


 しゅんと俯いた冬華が小さな声で謝罪を入れる。

 それから少し間を開けて語られた心の内側を、朝陽は静かに聞いていた。


「私、恋愛作品が大好きなんですよ」


 それは唐突な話し出しだった。


「物語の世界では男女が素敵な恋に落ちて、幸せなデートを繰り返し、ロマンティックな結末を迎える。そんな恋愛を夢見て、憧れていたんです。でも現実は物語じゃなくて。嬉しくて、楽しくて、幸せだと思っていた恋が、悲しくて、寂しくて、辛いこともあるって知って……もし、私の恋物語の結末が報われないものだとしたらと思うと、どう接したらいいかわからなくなってしまいました」


 一息ついて、再び冬華が言葉を続ける。


「今の距離感が心地よくて。この関係が壊れてしまうのが嫌で。もっと近づきたいのに、自分から離れてしまって……」


 冬華の話を聞いて、朝陽は一つの感情に結論を付けた。


 これは不安だ。

 

 これ以上先に進んでしまえば、良くも悪くも友達には戻れない。

 それが例え、どんなに小さな変化だとしても。

 少なくとも、今までの関係にひびが入ってしまう。

 

 だから足踏みをしてしまう。

 必要以上に考えてしまう。


 相手を想えば想うほど、今以上を望む一方で、今未満を恐れる。

  

 たった一言を伝えるのに勇気がいるのはきっとそういうことなんだろう。


「初めての恋だから大切にしたいんです」


 今までずっと立ち止まっていた朝陽だからこそ、冬華の言葉が痛いほどに理解できた。


「好きな人がいるのか」

「……はい」

「誰かって聞くのはズルいよな」

「……今はまだ、ダメです」


 冬華と一瞬目が合って、すぐ逸らされてしまう。


 その表情を見て、なにもわからない朝陽ではない。


「朝陽くんは、好きな人いるんですか?」


 お返しとばかりに聞かれた質問は、やけに震えて緊張していた。

 

「……いる」


 朝陽の答えを聞いて、冬華が複雑な顔をする。


「俺、最近気付いたんだ。冬華のこと全然知らないなって」


 こちらも唐突に始まった話を、冬華は少し驚いた様子を見せながらも聞き手に回る。


「多分、お互いがお互いを知らないと思う。こんなに一緒にいるのに、どこかでブレーキをかけて、今を続けようとして……」


 不思議なほど落ち着くことができた。

 言いたいことがすらすらと言語化されていく。


「俺は冬華と一緒にいたい。もっと冬華を知りたい」


 改めて言葉にした本音に、冬華はコクコクと何度も頷く。


「私も朝陽くんと一緒にいたい……もっと、あなたを知りたい。だから――」


 冬華がなにかを言いかけたのを、


「待って」


 朝陽が短く制止する。


「ちゃんと伝える。俺の気持ちを伝えるから……待っててほしい、その時が来るまで」


 今はまだ、その時じゃない。


 これは物語ではなく現実だ。

 嬉しいことも楽しいこともあれば、悲しいことも寂しいこともある。

 

 それでもロマンティックな結末を願うくらいは誰にだって許されるはずだ。


「……誰に言ってるんですかそれ」

「ただの独り言だよ」

 

 主題をぼかした曖昧な言葉は、余すことなく全て受け取られたようだ。


 その証拠に、冬華は雲間に差す太陽のように眩しくて、温かい笑顔を浮かべていた。


「じゃあ、私も独り言いいますね」


 いつの間にか雨は降り止み、陽の光が地上を照らす。


「返事は決まっていますから」


 淡く微笑んだ冬華に抱いた感情は、灰色だった日々を七色に染める。


 ふと空を見上げれば、二人の間に虹の架け橋がかかっていた。


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