第67話 重なる手のひら
千昭から貰ったチケットで水族館に入場すると、すぐに異世界へと誘われた。
ここは紛れもなく地上のはずだ。
外に出れば太陽の光が差し込むし、春の穏やかな風を感じられる。
しかし、この空間だけは違う。
大袈裟な比喩ではなく、文字通り別世界と表現してもいいだろう。
まるで、海の中で呼吸をしているような。
そんな感覚に陥るほど、世界が青に染まっていた。
「……すげえな」
思わず、朝陽が感嘆の声を漏らす。
水族館には何度か遊びに行った経験があるが、どれも遠い昔の思い出だ。
少なくとも、中学生以降は記憶にない。
そのため、見渡す限りの青は久しぶりで、かなりの衝撃があった。
そして、朝陽よりも衝撃を受けている少女が一人。
衝撃はもちろん、感激も受けているようで。
「朝陽くん、見てください! お魚が真上を泳いでます!」
「泳いでるな」
「あっちにエイがいますよ! ニッコリ笑っているように見えます!」
「笑ってるな」
「あっ、こ、この子はニモじゃないですか!? 小さくて凄く可愛いです!」
「可愛いな」
何というか、最後は冬華を見て言ってしまった。
聞いた話によると、冬華は水族館に一度も行ったことがないらしい。
正確には、家族で行く予定がなくなってしまった。
そう語る冬華の表情は寂しげで、背景を知った朝陽はどう冬華を楽しませようかと密かに考えていたのだが。
「竜宮城みたい……」
うっとりと水槽を覗き込み、子供の様にはしゃぐ冬華の姿を見れば、朝陽が要らぬ心配をする要はなさそうだった。
ブルーな気持ちは、一面の青が上書きしてくれる。
このまま青の世界に浸り、海の住人と触れ合えばそれでいい。
朝陽もまた、幻想的な光景に目を奪われながら、そう考えを改め直した時だった。
「……冬華?」
小さく名前を呼んでみる。
しかし、反応はない。
「冬華」
今度ははっきりと。
けれども、結果は同じだ。
周りを見渡しても、先程まで隣に居た少女の姿は見当たらない。
これはつまり、そう。
所謂、迷子というやつだ。
「ったく……日菜美じゃないんだから」
初詣に行った日の事を思い出し、朝陽は苦笑する。
人混みはそれなりにあるが、場所は限定的だ。
まだそう遠くには行っていないはずだし、すぐに合流できるはず。
そう見越して、朝陽は迷子の少女を探すことにした。
「……見つけた」
捜索開始から五分も経たず、迷子の少女は見つかった。
元居た場所から二つ離れたコーナー、この水族館の目玉となっている水槽。
その広々とした空間の主役であるジンベイザメにうっとりと魅入っている冬華の姿を、朝陽は何となく遠くから眺めることにした。
聞き心地の良いBGMに、薄暗い青色の照明。
深海を模した空間を大小様々な生物が共有する。
その中で、圧倒的な大きさを誇るジンベイザメに負けず劣らず、華奢で小さな冬華もまた特別な存在感を放っていた。
人が、魚が、一度は冬華に視線を送る。
そして恐らく、同じ感想を抱くのだろう。
「綺麗だな」
無意識に、無自覚に、朝陽は小さく呟いた。
様々な誉め言葉が頭に浮かんだが、青に染まった冬華を表すのに、これほどまでピッタリな言葉は他になかった。
「……あ、気付いた」
ようやく夢から醒めたのだろう。
異空間に夢中になっていた冬華は、我に返って状況を理解する。
そこからはもう、綺麗ではなく可愛いだった。
「……朝陽くん?」
不安気な表情を浮かべながら、か細い声で名前を呼ぶ声が聞こえて来る。
うろうろと辺りを歩き回り、時々行き交う人にぶつかりそうになり。
「冬華」
流石にこれ以上はと思い、朝陽が声を掛けると、冬華の表情がパッと明るくなる。
「朝陽くん! ……わっ、な、何するんですか!?」
「勝手にいなくなった罰」
ぺしん、と軽く、冬華の頭を叩くというか撫でる。
朝陽の心配そうな顔を察したのか、冬華の表情はすぐに反省の色に変わった。
「ごめんなさい……夢中になるあまり、周りが見えてなくて……」
「迷子とか日菜美の悪影響だぞ? 次から気を付けような」
「……そうですね」
「何なら初詣見たいに袖掴むか……って、流石に恥ずいか」
冬華が少し落ち込んでしまったため、少し明るい口調で冗談を挟む。
「あっちにペンギンコーナーがあるらしいし、今から――」
気を取り直そうと、朝陽が歩き出そうとした時だった。
前に進む朝陽に、後ろへ引き戻す力が加わる。
何かと思って振り返れば、冬華が顔を赤らめて俯いていた。
そして、もう少し視線を下げると。
朝陽の大きな手に、冬華の細い指先が触れていた。
「……冬華?」
「……こうすれば、絶対にはぐれないですから」
するりと自然に手のひらが重なる。
触れ合う肌からじんわりと温かい熱が伝わった。
「……行くか」
「……はい」
朝陽と冬華はしっかりと手を繋ぎながら、水中トンネルを並んで歩く。
全てが青色に染まる世界で、二人の頬はどこまでも赤い。
目に見えない二人の想いもまた、赤色の糸で確かに繋がっていた。
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